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 【[雑学]アジア

世界遺産雑学65--横たわる龍--
2000.12.30
 
世界遺産雑学65

--横たわる龍--

人類が生んだ世界最大の建造物
それは宇宙から見える唯一の建物
ここには中国歴代の歴史が眠っている
北の脅威から生まれた6700kmもの長城である。

万里の長城  中国

中国の歴史を語る上で重要な世界遺産。
北の異民族からの侵入を防ぐために造られた世界最大にして長い歴史を持つ壁。
それは山の頂上に作られた。
中には切り立った崖の上にも作られたのである。

この万里の長城は皆さんもいろんな事を知っているだろう。
しかし、実は世の中に知られていることは間違いが多い。
とくに4つほど間違った情報が流れている。
今回は万里の長城が語る正しい歴史を紐解こう。

1つめとして、みなさんは万里の長城は秦の始皇帝が建設したのだと記憶しているだろう。
しかし、それは大きな間違い。
秦の始皇帝が生まれる少し前に建設は始まっていたのである。
秦の前の周の時代から北の脅威はあった。
その周が滅んだあとに7カ国に分割された春秋戦国時代の際に北に面している秦、燕、趙の3カ国が築いたのが始まりである。
各国が別で長城を建てた。
それは、匈奴や東胡などのモンゴルの遊牧民族を恐れたためであった。
やがて、秦の国に始皇帝が誕生し中国を統一した。
しかい、中国を統一した後も北の脅威は無くならなかった。
このため、秦の始皇帝が国を挙げて国家工事を始める。
それこそ、各国に築かれている万里の長城を繋ぎあわせること。
あたかも万里に繋がる長城を補習・増築した結果、万里の長城は秦の始皇帝と象徴されるようになってしまったのである。

2つめとして、現在残っている万里の長城を建てたのは秦の始皇帝ではない。
実は「明」である。
秦時代に築かれた長城は土を固め作られたものであった。
このため、すぐに崩壊してしまう難点が存在した。
これを防ぐために歴代の王は補習・増築が加えられたのである。
その王朝の中でも一番の大改修をしたのが明であった。
では、なぜ歴代の王朝の中でも明が大改修を行ったのか。
それは、明の前の王朝こそ北の脅威から中国を征服した「元」であったからである。
初めて南から中国を統一した国としては北の脅威は恐ろしかった。
特に前の王朝はモンゴルからやってきた王朝であったためよけいに脅威に感じたのである。
これにより、明は土で固めた長城をもっと強固なものにする事を決断。
現在見られる、石やレンガなどを使用し堅固な長城を築き挙げたのである。

3つめとして昔の万里の長城は今ある長城よりも2倍以上も長い。
現在の万里の長城は2400kmであるが、実は過去にそれよりも長い長城を建てた王朝があった。
中国歴代の王朝の中でもっとも西に領土を広げた「唐」である。
唐は仏教を推進した国であった。
このため、仏教の発祥した西に領土を広げたのである。
それはシルクロードに沿って。
シルクロードを征服する事は利権を得ることの象徴でもあったのである。
しかし、こんな場所にも北の脅威にさらされていた。
これにより、唐は長城を増築。
現在の敦煌よりもさらに西へと拡大したのである。
がその後、唐よりも領土を西に拡大した国は現れなかった。
そして唐の時代に建てられた長城はどの王朝にも改修されぬままタクラマカン砂漠へと消えていった。
こうして、現在残る長城の距離となった。
それはすなわち「明」の西の領土の最果てを示しているのである。

最後4つめとして万里の長城は現在すべて繋がっていない。
それは、風化などにより壊れたためである。
先ほども現在残る長城を建てたのは明と説明しただろう。
実は、明の後に続く王朝として清が挙げられる。
しかしこの清、万里の長城を越えて北からやって来た。
さらに万里の長城よりも遙か北まで領土を押し広げたのである。
これにより万里の長城の意味が無くなってしまった。
北からの脅威がなくなったためである。
こうして清は万里の長城を改修する事は一度も無かった。
そして、現代と時が移ってしまう。
と、王朝が変わったぐらいでここまで風化するのかという疑問が出るだろう。
しかし最後に万里の長城が改修されたのが500年前。
日本で言う室町時代である。
中国では明・清・中華人民共和国と移るに500年以上の歳月があったのである。
さすがに500年以上の歳月により万里の長城はほとんどが崩壊してしまっている。
それはとても歩ける状態ではない。
現在、観光できる場所は観光用に修復されている場所。
それもごく一部なのである。
中にはダムで沈んでしまった部分もあるぐらい時が過ぎ去っているのである。



こんな、中国の歴史とともにあった万里の長城
その壮大な建築物という明るい影の中に暗い影が存在する。
それは数千年にわたり伝説に受け継がれている。

秦の始皇帝の時代
農民は万里の長城を建設するために強制労働をさせられていた。
そんななか一人の男が強制労働を嫌って逃亡する。
名を憘梁といった。
流浪の生活が続いた後、ある家に匿われることになる。
そして、その家の娘孟姜と結婚することとなった。
それは秦一番の美貌を持つといわれていた。
しかし流浪の身、秦軍に見つかり長城に連行され強制労働後に殺害されたのである。
それを知らない孟姜は秦に行方を聞きまわった。
この行動を秦の始皇帝が聞き、その美貌から側室になるように迫られた。
孟姜はそれを拒絶し、夫を探しまわったのである。
あるとき長城にたどり着いた孟姜はそこで夫の死を知ることとなる。
夫が死んだことにより、三日三晩号泣を続けた。
そのとき、長城の一部が崩れて夫の遺体が現れた。
孟姜は夫を埋葬し、すべてが片付いた後夫の後を追って自殺したのである。
それは秦に対しての復讐でもあった。

こうして残った伝説は唐、宋、元、明、清の歴史書や歌謡曲などに残されている。
中国の歴史とともに生き続けた伝説であった。



勃海湾から始まる万里の長城は中国の王朝史を象徴するものであるとともに明代における建築技術の高さを伝えるものとして1987年世界遺産に登録された。
その規模は人類史上最大と呼ばれている。






う~ん、長い長すぎる。。。
やはり、みんなが知っている世界遺産となると歴史の深さが結構あります。
中国のすべてを見るなら間違いなく万里の長城でしょう。
すべての時代にかかわっているものなどほとんどありませんから。
けれどもやはり、すべてが残っていないのは悲しい限りです。