--景観が失われそうになった初の世界遺産--
ライン川のほとり
ここに見るものが驚嘆する驚異の建築がある
首が痛くなるほど真上を見上げないと全体を見られない
ドイツが統一国家となった証
ケルンの大聖堂 ドイツ
ドイツ第四の都市、ケルン。
別名コロン
実は皆さんが知っているものの発祥の地
別名を見てみるとよく分かるだろう。
オーディコロン・香水の発祥の地である。
こんな街の中心にケルンの大聖堂は建っている。
奥行き144m、幅86mもあり、もっとも驚くべきところは高さ157mを有するのである。
これは世界の中でも聖堂として世界第二位の高さを誇る。

ゴシック建築で建てられており、中はステンドガラスであふれている。
まさしく驚愕の建築である。
実はこのケルンの大聖堂はほんの120年前に完成した聖堂であった。
しかし、着工が13世紀。
完成まで632年もの歳月が必要となったのである。
では、なぜこんなにも年月がかかってしまったのだろうか。
それは資金難。
ケルンに最初の聖堂が建ったのが9世紀。
その後12世紀には聖人東方三博士の遺骨が納められここは聖地となった。
しかし13世紀に当時木造だった聖堂は火事で消失してしまう。
そこで燃えない石で聖堂を作ることを決定。
フランスのアミアン大聖堂をお手本としその規模より大きく作ることを目指したのである。
その後順調に建設が進められたのだが、たびたび資金不足により工事はたびたび中断した。
そして1560年より完全に工事は中断してしまったのであった。
後282年間、未完成のまま放置された。
時がたち19世紀、ドイツの文化人がケルン大聖堂の完成を呼びかけた。
しかしすでに長い年月がたっており当初の大聖堂の図案がなかったため困難を極めた。
そんな時偶然にも14世紀の図面が発見される。
こうして再び工事が再開される事となったのである。
また、資金についても当時のプロイセン王が援助を申し出た。
当時のドイツは小国家の集合体であった。
このときナポレオン1世が侵攻。
同盟軍の手によりナポレオンに勝利はしたが、小国家の集合体では滅びる可能性が高くなってしまう。
統一国家を建国できないかと模索していたのである。
まさにケルンの大聖堂はその統一国家のシンボルとなる建設であった。
ドイツ人が立てたヨーロッパで崇高な大聖堂が必要とされたのである。
こうして1871年、632年もの歳月をかけて完成したのであった。

しかし、2003年に世界遺産として最も注目をされた世界遺産となってしまった。
それこそ「危機遺産登録」である。
2003年世界遺産委員会でセネガル代表がケルンの大聖堂を世界遺産から抹消する事を提案した。
それはケルン大聖堂の周辺で大規模な都市開発が計画されたからであった。
この計画の中には高層ビルの建設も計画されていた。
高層ビルが建てられれば周囲の景観が一変する。
世界遺産としての価値がなくなってしまうと考えたからである。
が、いままで世界遺産に登録されてから抹消されることは一度も無かった。
このため、ケルンの大聖堂を危機遺産に登録し都市計画の動向を牽制することとなったのである。
これに困ったのがケルン。
ドイツ第四の都市であるため、人口に見合うだけの都市開発が必要であった。
このため、都市に巨大な建物が必要だったのである。
近代化と歴史を守ることを両方の悩みを抱えた場所であった。
世界遺産を抱えた大都市の大きな悩みが露呈したのである。
しかし、ヨーロッパ初の危機遺産の誕生という汚名を付けられたケルンは都市開発を中止する。
こうして2006年危機遺産リストからはずされたのである。
ケルン大聖堂はゴシック建築の傑作として、またドイツの統一国家のシンボルとして1996年世界遺産に登録された。
世界遺産を有する大都市してさまざまな制約をもった場所になった瞬間でもあった。
この世界遺産はびっくり。
駅の目の前に大聖堂があるから、ホームから巨大な大聖堂が見える。
駅を出たらそのまま大聖堂って感じです。
それにしても巨大でした。
あまりにも高すぎてずっと上を見てられない。
また、ここはホント大都市。
その割には高層ビルは何にも無いです。
だから危機遺産になったときはやっぱりって感じでした。
世界遺産を持つと大きく制約されて大変なんですね。