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 【[雑学]ヨーロッパ

世界遺産雑学105--世界一の富豪が残した芸術の息吹--
2000.12.30
 
世界遺産雑学105

--世界一の富豪が残した芸術の息吹--

街自体が博物館
そう呼ばれたレンガ色に染まった街がある。
この街は世界を震撼させた天才芸術家をたくさん生みだした場所
「ルネサンス」


フィレンツェの歴史地区  イタリア

イタリア、トスカーナ地方
温かい気候により甘い白ワインの産地として有名な場所。
そこに流れる一本の川「アルノ川」
ここに毛織物を産業とした一つの町が出来上がる。
一介の産業都市であったこの場所が世界で一番栄えることになる場所。
「フェレンツェ」
この場所こそルネサンスの始まりの場所である。

時は13世紀後半。
このフィレンツェにある一家が誕生する。
世界史の中でも最もお金を持った一家とされ、芸術をこよなく愛した一家
「メディチ家」
メディチ家は毛織産業で発展した街に必要であった銀行を創設した。
当時の通貨は街ごとに違っていた。
この中でもフィレンツェの通貨は産業が発展した街の通貨としてヨーロッパでもっとも信頼できる通貨だったのである。
そこで銀行を開いたときから銀行は瞬く間に繁栄。
さらに国外にも支店を置きヨーロッパ屈指の銀行へと変わったのである。
こうしてメディチ家には世界最大の富が手に入る。
やがて彼らはこの富を使って芸術を追及していくのであった。

メディチ銀行の創始者、ジョヴァンニ・ディ・ビッチ。
彼が銀行を作ってから、息子コジモ・イル・ヴェッキオの代で世界の富豪となると、ヴェッキオは新たな試みを始める。
「プラトン・アカデミー」の創設を始めるのである。
このプラトン・アカデミーとは古代ギリシャ・プラトンからヒントを得ている。
プラトンは自分の研究だけではなく他人と意見をぶつけ合うことで更なる高みを想像できると考えた。
このため、数々の研究者や芸術者と討論するサークルを作りだしていた。
ヴェッキオも芸術のさらなる発展のために芸術家・哲学者のための学校を作り上げたのであった。
こうしてフィレンツェで芸術が開花することとなる。
そのヴェッキオの子ロレンツォも芸術家を庇護することを始める。
このとき庇護された芸術家の中にはヴェロッキオやその弟子レオナルド・ダ・ヴィンチなどの名前が連なる。
彼らはメディチ家の庇護のもと各分野の最高傑作を生み出したのであった。
ルネサンス文化の幕開けである。

そんな中でもフィレンツェでもっとも美しいとされたものがドゥオモ。
サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂である。
フィレンツェの中心に存在し、高さ100mを超える天井。
数々の天才芸術家が作品をこの場所に残したドゥオモ(大聖堂)である。
実は大聖堂の歴史を語るには二人の天才芸術家の名前を語らねばならない。
金銀細工師「ブルネッレスキ」
無名の新人「ロレンツォ・ギベルティ」
の2名である。
当時の大聖堂の建設者はコンペで作成を依頼していた。
そして1401年に大聖堂の北門の扉に旧約聖書の一説「イサクの犠牲」を題材として描くコンペが行われたのである。
そして6名の応募者のうち、2名が選ばれたのであった。
それこそブルネッレスキとロレンツォの2名である。
その時ブルネッレスキ24歳、ロレンツォ23歳の時。
選考は長い激論の末に無名の新人ロレンツォに決定する。
こうして北門の扉の制作に取り掛かる。
また、彼は東門の制作も依頼された。
特に東門はあのミケランジェロが「天国の門」と呼ぶほど賞賛を得たのであった。
こうして名を上げていくロレンツォに対しブルネッレスキは無名の新人に負けたことにより衝撃を隠せなかった。
彼はこのコンペ後、彫刻家になることを断念。
建築家として生きていくことを心に決める。
その後20年の歳月が過ぎさった。
今度は大聖堂最大の建築、天井の大円蓋の作成をコンテストが開催されることになった。
建築家となっていたブルネッレスキはもちろんこのコンテストに応募する。
そして彼は最終審査の2名まで残るのであった。
このもう1名こそ20年前に敗北を喫したロレンツォ。
しかし彼はこのライバルを制し見事天蓋の制作を依頼されるのであった。

こうしてブルネッレスキが大円蓋の受注を受けたのだがそこには数々の困難が待ち受けていた。
それは直径47m、高さが100mの位置に作るという途方もない建築。
また、そこには柱は1本も使わず足場も巨大なものではなくてはならないという注文であったからである。
しかし、ブルネッレスキはある秘策があった。
それこそ2重構造である。
大円蓋を巨大な1重構造ではその材料を上にあげるにも労力が必要である。
さらに1重構造では一番下の部分に多大な負荷がかかってしまうのであった。
それを解決するのが2重構造。
一つの屋根はそんなに厚くない。
このような天井を2つ重ね、それぞれの主要な部分の屋根を結合させている。
これにより負荷をいろんな場所で分散させる仕組みをとったのであった。
こうしてコンテストより16年後大聖堂の円蓋は完成する。
そして完成した大聖堂は至宝を極めた大聖堂となった。
教皇にヴァティカンの大聖堂を依頼されたミケランジェロが
「私はフィレンツェにあるサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂より美しいものは作れません」
と言わしめるほどに。


このように芸術家を庇護し、フィレンツェの主となったメディチ家は更なる繁栄を迎える。
一族の中にはローマ教皇に2名、2人の娘をフランス王家の王妃になるほどに。
また彼らには逸話がのこる。
アルノ川に架かる橋、ヴェッキオ橋。
この橋をよく見ていると2階部分があることがわかる。
実はメディチ家は極力外に出ることを嫌がった。
それは橋の上で肉屋や野菜屋を商う店があり、余ったものを川に投げ入れる風習があった。
これにより、町の匂いはひどいものであったため。
この匂いや雨などの天候を避けるために彼らは囲まれた廊下を独自に作ったのである。
その廊下は自分の宮殿から政治を行う場所、祈りを捧げる聖堂まで外に出ずに移動するようにしたのであった。

しかし、こんな繁栄をした世界一のお金持ちメディチ家にも最後の時がやってくる。
後継者断絶という現実であった。
1737年、子供がいなかったメディチ家大公がなくなる。
そして姉のアンナ・マリア・ルイーザだけが残された。
彼女も最後まで芸術家を庇護し聖堂の建設にいそしんだ。
しかし75歳の時にこの世を去ってしまう。
こうしてメディチ家は後継者がいなくなるという事態に発展したのである。
残された巨万の富は彼女の遺言に示されていた。
「何人もフィレンツェに残された絵画は永久にこの街から持ち出さない」
これにより、フィレンツェを支配していたトスカーナ大公に寄付されたのであった。
こうしてルネサンスで輝いたほとんどの絵画や彫刻は今でもこの街の歴史とともに残っているのである。



メディチ家の庇護のもと繁栄したフィレンツェはルネサンスが始まった場所として、建築・絵画ともにルネサンス芸術の至宝であり、メディチが残した町並みが当時の文化を反映しているとして1982年世界遺産に登録された。
天才芸術家レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、ラファエッロ、ジェットなどすべてはこの街から生み出されたのである。





すべての芸術はここから始まる。
どうしてもあの大聖堂見たいんです。
日本では冷静と情熱のあいだで有名にもなりましたよね。
あの大聖堂にはルネサンスのすべてが残っているのです。