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 【[雑学]ヨーロッパ

世界遺産雑学106--水に囲まれた住居に栄えた栄光と革命--
2000.12.30
 
世界遺産雑学106

--水に囲まれた住居に栄えた栄光と革命--

ここは世界で最も栄えた場所
セーヌに輝く街は栄光の歴史をたどっていく
一度は革命という歴史を経験をするが今なお世界の中心として存在し続ける。
そこはまさに奇跡の場所


パリのセーヌ河岸  フランス

フランスの首都、パリ。
この街に流れる川こそがセーヌ川。
悠久の時を見つめた川である。
このセーヌ河の両岸には様々な建造物が残る。
世界最大級にしてモナリザなどの名画を所蔵するルーブル美術館。
写真95
フランスの大聖堂の象徴でバラ窓が有名なノートル・ダム大聖堂
一面ステンドグラスに囲まれ幻想的な雰囲気を与えるサント・チャペル

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フランスの革命を支えた広場、コンコルド広場
近代建築の中でパリの象徴ともなったエッフェル塔
など多種多様な建造物が残る。
これはパリが6世紀以降より王国の首都であり続けた証。
一度も衰退することもなく繁栄だけを見つめ続けた、奇跡の街の証拠。

パリの始まりは紀元前にさかのぼる。
当時この地に住み着いたのはケルトの民族。
彼らはこのセーヌ河の中に小さな小島を見つける。
そしてこの場所に移り住んだのだ。
このため、当時はルテティア(水に囲まれた住居)と呼ばれていた。
ルテティアがパリと呼ばれるようになるのは4世紀。
紀元前50年頃にローマ帝国がこのルテティアを占領することから始まる。
その後、西ローマ帝国が消滅。
メロヴィング朝クローヴィスがフランク人を統一してフランク王国を建設するとパリは首都に変貌するのである。

こうして栄光を手に入れたパリはカペー朝時代にさらなる発展を手にする。
それこそ絶対王政の確立である。
繁栄はまずセーヌに囲まれた島、シテ島にサント・チャペルとノートル・ダム大聖堂建設に端を発する。

サント・チャペルは王の礼拝堂。
この建設にはある理由があった。
それは聖遺物の保管。
当時中世にはあるブームがあった。
キリストと12人の弟子の遺骨や関係した物などを手に入れること。
この聖人たちの残したものを聖遺物として保管することは権力の誇示にもなったのであった。
カペー朝にはキリストの茨の冠と磔刑の十字架の一部を譲り受けたとされる。
そしてサント・チャペルの建設が始まった。
それは完成した時に誰もが絶句するような聖堂。
中を踏み入れると3方向に埋め尽くすようにステンドガラスが配置されている。
後ろを振り向くとバラ窓など、最小限の柱で支えられているのである。
しかし、その建設費は膨大であったが、聖遺物の譲渡権の1/3であったと歴史に伝えられている。

ノートル・ダム大聖堂はもともとケルト人が祭壇を立てた場所だ。
それがキリスト教が国教になるとこの地に聖堂が建てられる。
こうしてシテ島にはもともと聖堂は存在したのだが、12世紀に建て替えることとなる。
実は中世にはもう一つのブームがあった。
大聖堂建設である。
街を象徴させようとして人々はこぞって大聖堂を建てた時代。
このパリも例外なく大聖堂を建設したのである。
こうして完成したノートル・ダム大聖堂は人々に驚愕を与えることになるのであった。
通常、大聖堂とは自身の重量を支えるためどうしても壁だらけの聖堂となってしまう。
窓などほんの一部しかつけられなかった。
それがこの大聖堂には大量のステンドグラスが配置されていた。
見る者すべてが奇跡の建築だと思い込むほどであった。
この建築を成功に収めて方法こそ飛梁である。
飛梁は柱の後ろにもうひとつの柱を建設しそれをつないで重量分散する方法である。
要するに大聖堂を骨格する柱を一度作りそこに壁をつないで大聖堂を形造る。
その大聖堂の柱の外側にもう一つの柱を作りつなぐという工法。
重量分散をすることにより壁を減らしステンドグラスをふんだんに使ったのである。
こうしてノートル・ダム大聖堂はヨーロッパの人たちから絶賛の嵐を受けるとこになった。

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このことにより2つの建造物によりパリはキリスト教建築の建築、ゴシック建築を確立することになった。
また、この2つが大きな影響となりフランスは一大キリスト教国家へとのし上がったのである。
しかし、栄光だけを見つめたこの場所にひとつの動乱が起こる。
「フランス革命」である。
ブルボン朝、絶対王政の最も輝いた王朝であり、ヴェルサイユ宮殿を作った豪華絢爛な時代。
そんな豪華絢爛な生活を送ってきた王国は多額の税によって成り立っていた。
この苦しさのため、民衆が蜂起。
絶対王政撲滅のためのフランス革命が勃発する。
その後、ルイ16世とマリーアントワネットが処刑されフランスは内乱の時代へと突入していく。
このときにフランス革命の中心だったのがコンコルド広場だ。
この場所は民衆がこの場所から蜂起し、ルイ16世とマリーアントワネットが処刑された場所。
コンコルドとは調和を意味し、もともと王様の名前がついた広場であったが、民衆の願い「平和な社会の到来」を期待しこの名前がついた。

こうして内乱に入ったフランスに一人の英雄が現れる。
「ナポレオン・ポナパルト」である。
彼は無政府時代のフランスを占領。
民衆に自由を与えた英雄として称えられるのである。
そんなナポレオンが自らの居城として定めたのがルーヴルであった。
このルーヴルはもともと王の宮殿であった。
しかし絶対王政のルイ14世の時代にヴェルサイユ宮殿に移り住んだ際に宮殿は廃墟と化す。
それを再建しなおしたのである。
その後ナポレオンは各国に侵略。
次々と征服していったナポレオンは各国の美術品をルーヴル美術館へ運んだ。
こうしてナポレオンはヨーロッパのほとんどを征服する。
しかし、ナポレオンがロシアに敗北したのを境に失脚する。
帝位はナポレオン3世に受け継ぎルーヴルは拡張され、さらに巨大な宮殿となった。
その後はフランス政府が樹立したさいにルーヴルは市民に開放される。
現在では世界最大級の美術館としてその存在を示しているのである。

こうしてパリの街に栄光と平和が訪れることになった。
激動の時代を終えたパリにはこれ以上変化がないものだと思われた。
しかし、ある出来事が再びパリの街の議論という動乱が待っていた。
それこそエッフェル塔の建設である。
現代の世の中で各国の力を見せつけるイベント
「万博」
それがパリに開催する際に自国の力を見せるためにパリの中心地に巨大な塔を建てる構想が持ち上がる。
その建築者に任命されたのが「ギュスタヴ・エッフェルト」
かれはパリの中心地に高さ300mという塔を建てることを提案する。

が、パリに住む芸術家はこぞって反対を表明する。
歴史の詰まったこの街を侮辱する建物だとして。
しかし、こんな反対を押し切り塔建設を推し進める。
もちろんこの時には塔は20年後に解体するとの約束をして。
こうしてエッフェル塔は完成する。

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高さ300m。
世界最高の高さを誇る塔を建て、万博は成功したのであった。
が、文化人は面白くなかった。
中にはエッフェル塔を見たくないためにエッフェル塔に登りそこから景色を眺め、エッフェル塔は視界に入らない、いい場所があると言っていた人もいたぐらいに。
そして20年の歳月が過ぎ、エッフェル塔を解体するときがやってきた。
が、このときある技術が開発されていた。
電波である。
電波を使って遠くの場所と通信ができる技術が発達。
この通信を行う場所こそエッフェル塔が最適だと判断された。
このため、エッフェル塔は解体せずに頂上に電波塔が建てられたのであった。
こうして鉄の魔術師と呼ばれ、生涯の傑作となったエッフェル塔は現在もパリの街に君臨し続けるのである。



パリに残る建造物は宗教、政治、文化、芸術など各分野などで数々の発展を見せた場所であり、ゴシック建築の発展や革命の記憶を残す場所として1991年世界遺産に登録された。
千数百年も首都であり続け、繁栄の時しか見てこなかったこの場所が。



ここを回るのは3日かかります!!
それだけ見どころ満載!!
ちなみに私はルーヴル美術館のすべての作品を見るだけで1.5日かかりました。
それだけ、広いんです・・・。
ところで、皆さんも勘違いしていると思いますが、凱旋門は世界遺産ではありません。