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 【[雑学]ヨーロッパ

世界遺産雑学108--ヨーロッパを支配した一族の離宮--
2000.12.30
 
世界遺産雑学108

--ヨーロッパを支配した一族の離宮--

見渡す限りの広大な庭園
はるかかなたに見える建物すら庭園の一部
ここには世界のさまざまなものが集められた
世界を支配した一族のために


シェーンブルン宮殿  オーストリア

オーストリア、ウィーン。
この中心地から約5km離れた場所ある宮殿。
そこにはすべてを黄色で塗られた巨大な建物。
さらにその奥にはすべてを見るのに一苦労する庭園が広がっている。
こんな素晴らしい宮殿を建てた一族こそヨーロッパのすべてを握っていた一族。
スペイン、神聖ローマ帝国、オーストリア帝国。
すべての国で政権を持ち続けた
「ハプスブルグ家」
彼らはシェーンブルン宮殿を夏だけのために使う離宮として建設したのである。


ハプスブルグ家の歴史は1273年にさかのぼる。
当時のハプスブルグ家の長だったルドルフ1世が神聖ローマ帝国の皇帝になったことから始まった。
神聖ローマ帝国とは実は帝国ではなく、たくさんの諸侯の連合国であった。
その有力な諸侯の7つから多数決で皇帝が選任されるという仕組み。
ルドルフ1世は見事に選任されこの皇帝の座に上り詰めた。
そして彼はボヘミアにあった王国を侵略しオーストリアを神聖ローマ帝国の領地としたのである。
その後ハプスブルグ家は着実に力をつけていき、14世紀に入るとなんと神聖ローマ帝国の七大諸侯すべてをハプスブルグ家の子孫で固めるという事態にまで発展。
このため、決議権をもつ七大諸侯が同じ家柄のため15世紀以降はすべての神聖ローマ帝国皇帝をハプスブルグ家から輩出するという栄光を見せるのである。
さらにハプスブルグ家の栄光はとどまるところを知らない。
ハプスブルグ家はその後政略結婚により領土を増やすことを試みる。
そして16世紀にはカール5世がスペインの王まで上り詰めるのである。
くしくも16世紀のスペインは大航海時代。
新大陸のすべての金銀財宝がハプスブルグ家に転がり込んできたのであった。

そしてオーストリア帝国としてハプスブルグ家が権威を示すのが18世紀。
侵略してきたオスマントルコを滅ぼしたことがきっかけになりこの地に繁栄をもたらすことになる。
こうしてウィーンに王宮が建てられる。
その後、王は夏の離宮建設のためにシェーンブルンの地に王宮を建てることを決意。
当初はフランスのヴェルサイユ宮殿を超えることを目標としたが資金繰りがうまくいかずに従来より小さいピンク色の宮殿が建てられたのであった。
しかし次に即位した皇帝はこの宮殿を気に入らなかった。
このため、廃墟同然になる。
シェーンブルン宮殿がかつてない繁栄を見せるのは一人の女帝が帝位を握ってから。


1717年、オーストリアの地に一人の女の子が誕生する。
ハプスブルグ家皇帝カール6世の子供として誕生したのが
「マリア・テレジア」である。
彼女には一人のお兄さんがいたがその時すでに亡くなってしまった。
カール6世にはその後男の子供が生まれなかった。
このため彼は娘に帝位を譲るべく男性女性にかかわらず皇帝の長子に次の帝位を継がせる法律を作ったのである。
この間にマリア・テレジアは結婚をする。
それも当時としては珍しかった恋愛結婚で。
その頃のハプスブルグ家の女性は政略結婚が当たり前であった。
これは政略結婚により領土を拡大してきたハプスブルグ家の掟のようなもの。
が、マリア・テレジアは見事に愛した男性と結ばれたのであった。

そんな幸せいっぱいのときに事件は起きる。
父、カール6世の死去である。
こうして、ハプスブルグ家のすべてを彼女に相続されることとなった。
このときマリア・テレジア23歳。
ハプスブルグ家始まって以来の女帝の誕生であった。
この幼い女性が指揮官ということもあり、自分の領土を広げるために各国がオーストリア帝国へ侵入。
一気に窮地に落とされたマリア・テレジアはハンガリー王国へ力を求めたのである。
こうしてハンガリーの力を借りて各国を撃退し、女帝としての地位を確立していったのであった。

国内が安定したマリア・テレジアは自分の居城の建設を始める。
その場所として選んだのがシェーンブルン宮殿であった。
彼女はもともとあったこの宮殿のすべてを改築、拡張する。
そしてピンクの宮殿をすべて黄色に塗りなおしたのであった。

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それぞれの部屋にも特徴を持たせ、漆工芸で作った部屋、フレスコ画に覆われた部屋、陶器で作られた部屋など様々な部屋を作り出したのであった。
さらに庭園の拡張にも乗り出す。
この庭園にはある特色があった。
それはヨーロッパを支配したハプスブルグ家だからできる庭園。
「世界中のあるとあらゆるものをここに集め、世界をここに作ること」
ローマの遺跡を模した場所
ギリシャ神話の描かれた噴水
熱帯植物などを集めた植物園
インドから取り寄せた象などを飼育する動物園などなど。
とくに動物園は世界で初めてこの庭園で造られた。
それこそ、世界各国に影響のあるハプスブルグ家であったからこそできたのである。

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さらに近年わかったことがあった。
一か所だけ石がごろごろして、草が生えっぱなしで全く手入れのされていないところがあった。
研究者たちはここに何があったのかがわからなかったのである。
しかし、研究をしていくと驚くべき庭園が見えてきた。
それこそ「日本庭園」である。
日本の庭園は石を効果的に配置して風情を出す、枯山水の技法があった。
それが遠くオーストリアの地に作られていたのであった。
これもハプスブルグ家が東洋の地にまで交流があったことの証。

こうしてシェーンブルン宮殿は完成する。
そしてこの場所でマリア・テレジアは女帝として君臨し続けた。
彼女はその後16人もの子供をもうける。
その中にはフランス革命で有名となったマリー・アントワネットもいた。
晩年、マリア・テレジアはフランスに嫁ぎ金使いの荒いマリー・アントワネットを気遣い何回も手紙にしたためた。
そしてマリア・テレジアは1780年に永遠の眠りに就く。
マリー・アントワネットが処刑される13年前のことであった。



双頭の鷲の紋章を持つハプスブルグ家が建てたシェーンブルン宮殿はヨーロッパの主要都市を象徴し、バロック建築の最高峰にして世界最古の動物園を擁する芸術作品として1996年世界遺産に登録された。
一人の女帝が作り上げた栄光がここには残る。

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ここ、ほんと広いんです。。
見るのに一日かかった。。
でも、それだけの価値はあります。
オーストリアで日本庭園を見た時はびっくりしましたが。
ちなみにここには庭園の木で作った巨大な迷路があります。
楽しんでみてはいかがでしょうか!!