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 【[雑学]ヨーロッパ

世界遺産雑学109--音楽の都を築いた一族の栄光--
2000.12.30
 
世界遺産雑学109

--音楽の都を築いた一族の栄光--

この街には何があったのか
そんな疑いをかけてしまうほど音楽の天才たちが生まれた場所。
ここには王宮などの繁栄の証がある。
ハプスブルグ家の繁栄


ウィーン歴史地区   オーストリア

音楽の都、ウィーン
ここには様々な音楽の天才たちが生まれたきた。
ハイドン、モーツァルト、ベートーベンなどのウィーン古典派
ワルツやポルカの作曲者ヨハン・シュトラウス2世
世界の音楽を変えた人たちはこの場所から生み出されていたのである。
こんな音楽の街となったのもこの場所が平和と繁栄があったため。
音楽家たちの守った歴史がそこにはある。
その歴史こそハプスブルグ家の支配であった。

ハプスブルグ家
神聖ローマ帝国の皇帝に君臨したのを境にヨーロッパの覇権を握っていく一族。(雑学108参照)
彼らはオーストリアのウィーンをボヘミア王から勝ちとったことからこの地を王都と定める。
以後、ウィーンは640年にわたって首都として帝国の繁栄をこの地に集結させたのであった。

そしてウィーンが最も発展するのが17世紀。
オスマントルコのウィーン包囲に端を発する。
当時オスマントルコはビザンツ帝国の首都コンスタンティノープル(現イスタンブール)を占領し、中東の覇権を握っていた。
そして、キリスト教の領地を次々と征服させていったのである。
ギリシャにはじまり、バルカン半島の制覇。
そしてとうとうオーストリアまで軍を派遣したのであった。
当時の王は一度ドイツへ避難してしまう。
しかし、ウィーンを包囲されたことでウィーンにポーランドの軍を派遣することを決定。
指揮官に任命されたのがサヴォア公オイゲンであった。
彼はこの使命を見事に果たし、ウィーンからオスマントルコを排除することに成功。
この功績により彼は富とウィーンで宮殿を建てられることを許された。
こうして城壁の外に宮殿の建設を開始する。
その宮殿こそ「ベルヴェデーレ宮殿」
美しい景色という名をもつ宮殿はその名の通りウィーンが眺められる丘に建設された。
現在ではウィーンの有名な芸術家グスタフ・クリムトの絵画の作品を展示している宮殿となっている。

もちろんハプスブルグ家の住居も建てられた。
こちらは13世紀から建設され数々の増改築がなされている。
しかも、さまざまな施設も残る。
旧王宮、新王宮、宰相宮、図書館、乗馬教室など。
ハプスブルグ家の集めた豪華調度品がここにあつめられたのであった。
数々の食器、数々の家具、数々の宝石。
中には拳ぐらいの透明な宝石も残る。
特に目を引くのが王冠。
彼らはたくさんの宝石をちりばめた王冠を作らせたのであった。
ウィーンでは現在ハプスブルグ家が残したものをすべて見られるように王宮が博物館となっているのである。

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こうしてハプスブルグ家のすべてを残すウィーンにある出来事がやってくる。
ナポレオンの台頭である。
ナポレオンは当時の思想をすべて変えた人物。
絶対王政に終止符を打とうとした人物であった。
しかし、この思想に困ったのがハプスブルグ家やヨーロッパの王族。
彼らはナポレオンが失脚した際に今後の政策をウィーンで相談した。
世に言う「ウィーン会議」である。
「会議は踊る、されど進まず」
ウィーン会議を表す有名な一節。
それもそのはず90の王国と53もの公国の政治家が集まったため。
意見が揃うこともなく、肝心なことは決めることができなかったのである。
しかし、ナポレオンが流刑地から脱走したことを知るとあわてて政策を決定させたのであった。
この会議がウィーンで行われたのもハプスブルグというヨーロッパで最大の一族であったため。
当時のヨーロッパで一番繁栄した場所であった。

こんな栄華を極めた街が19世紀に転機が訪れる。
都市改造計画である。
ハプスブルグ家、皇帝フランツ・ヨーゼフ1世が考えた都市計画。
リングシュトラーセの建設である。
リングシュトラーセとは道路。
環状道路の建設計画ある。
この時代にはすでにウィーンには戦争がなくなっていた。
そのため、ウィーンの環状に建設された城壁跡に道路を敷くという計画。
こうしてリングシュトラーセが建設された。
そしてその環状道路の周りには様々な建物が次々と建てられた。
市庁舎、国会議事堂、野外博物館、国立劇場など。

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ネオルネサンス・ネオゴシックなど様々な様式によって当時の最高の建築物がつくられたのであった。
こんなに壮大な計画にはある出来事が起こっていた。
「泡沫会社設立時代」
当時起こった普仏戦争。
プロイセンがフランスの領土を求めて起こした戦争。
その際プロイセンが勝利。
賠償金として50億フランの支払いを命じたのであった。
この賠償金が経済を刺激して投資が発展。
バブル時代に突入していた。
このバブルのお金によりこれほど壮大な建造物群がつくられたのであった。

こうして繁栄をし続けたこの街にも最後がやってくる。
第一次世界大戦。
この世界大戦によりオーストリアは敗北。
さらにハプスブルグ家が失墜。
共和国へと歴史の道を歩んでいくのであった。
しかし、この街はハプスブルグ家の証がたくさん残っているのである。


ウィーンに残る歴史地区は音楽・芸術などヨーロッパ文化史の中で重要な役割を示し、各時代の建造物がたくさん残ることから、2001年世界遺産に登録された。
ここから世界を変えた芸術家・音楽家が排出されているのである。



それにしてもハプスブルグ家はすごい。
どうしてここまでヨーロッパにおいて権力を持てるようになるのか。。
興味が尽きないです!!