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 【[雑学]ヨーロッパ

世界遺産雑学120--アドリア海の真珠に起きた悲劇--
2000.12.30
 
世界遺産雑学120

--アドリア海の真珠に起きた悲劇--

真っ青な空と商船が行きかうアドリア海
そんな場所にある赤レンガ色の中世の町並み
しかし、こんな場所が破壊し続けられることになる。
独立戦争という悲しい出来事で。


ドゥブロヴニクの旧市街  クロアチア

東ヨーロッパ、バルカン半島。
この中でもアドリア海に面している国、クロアチア
そしてクロアチア最南端に位置している街こそドゥブロヴニクである。
ここには中世からの街並みが残り、それがそっくりそのまま保存されてきた。
赤い瓦屋根で構成された、聖堂・宮殿・街に白い外壁が躍る色のコントラストが並ぶ。
また、アドリア海の海岸線に抱かれた街であり、その海岸線と中世の街並みのきれいさから「アドリア海の真珠」と呼ばれるようになる。
なかには「ドゥブロヴニクを見ずにして天国を語るな」という文化人まで出てきたほど、この街は世界の中でも美しい街であったのだ。
しかし、この街には悲惨な出来事が待っていた。
それもほんの15年前のこと。
バルカン半島に激動の歴史が待っていたのである。

ドゥブロヴニクの街並みができてきたのは7世紀初頭。
アドリア海にはヴェネツィアという巨大な都市があり、そこから地中海へ出る中継地点として発展した。
また、この場所は海岸沿いに断崖絶壁の岩肌が存在し天然の要塞が作ることが可能だったのである。
こうしてドゥブロヴニクは発展。
13世紀にはヴェネツィアに支配されながらも、貢納金を支払うことによって自分たちの自治を認めさせたのであった。
これはハンガリー王国、オスマン帝国下でも変わることなく、自分自身で繁栄し続けたのだ。
それもそのはず、彼らには一つの信念があった。
「自由は世界中のお金をもってしても、あがなうことができない」
これは城壁に書かれた碑文。
彼らは必死になって自分たちの自由を手にしたのである。
19世紀にフランス軍に自治権が崩壊させられるまで彼らはこの街に繁栄を導いたのであった。

しかし、こんな繁栄をしたドゥブロヴニクにも戦争という悲劇が待っていた。
バルカン半島に残る見えない傷跡が表立った瞬間であった。
バルカン半島は別名「戦争の火薬庫」と呼ばれる。
それは火がつけば一瞬にして大きな戦争となることからつけられている。
それもそのはず、バルカン半島には多種多様な民族が暮らしていたためである。
第一次世界大戦のはじまりもこのバルカン半島から。
サラエボでオーストリア王子が暗殺されたことに端を発している。
こうして第一次世界大戦後にこの場所はユーゴスラビア連邦として統治されることとなった。
しかし、ユーゴスラビア連邦にも戦争の火薬庫が存在した。
「七つの国境、六つの共和国、五つの民族、四つの言語、三つの宗教、二つの文字、一つの国家」
すべてが一つ場所に納められていたのである。
それが東西冷戦後、独立の気運が高まり一気に独立を宣言したのであった。
1991年にはクロアチア・スロベニア・マケドニアが、1992年にはボスニア・ヘルツェゴビナが独立を宣言。
それに対し、独立を宣言した国の中にいる違う民族が黙っていなかった。
また、セルビア連邦が独立阻止とその民族を助けに兵を派遣したのである。
こうして独立戦争・内戦へと発展したのであった。
この内戦は激化の一途をたどる。
各国の人々が民族の違うもの同士、殺し合いを始めていく。
地上最悪の内戦であった。

こんな中ドゥブロヴニクには戦争が起きないだろうと予想されていた。
なぜならば1979年にすでに世界遺産に登録されていたためである。
世界遺産に登録された街はさすがに攻撃しないだろうという考えからであった。
しかし、この予想は覆される。
この街は国境近くであったため砲弾や銃撃の嵐にのまれていく。
1991年12月6日、この街は総攻撃をかけられた。
落とされた銃弾の数2000以上。
街の半分以上は壊滅状態となったのである。
この瞬間、ユネスコはこの街を危機にさらされている世界遺産に指名。
だが、何もすることができなかったのである。
内戦の様子を見守るしかなかった。

こうして内戦が終了したのが1995年。
その時にはドゥブロヴニクはアドリア海の真珠という名の街並みはすでに失われていた。
いたるところに瓦礫と銃弾の跡が残っていたのである。
しかし、住民とユネスコの協力のもとこの街は復興していく。
材料も破壊される前と同じ材料を使い、数年前まで残っていた風景を見事に復元していくのであった。
こうした努力のもと、ユネスコは1998年に危機遺産を解除する。
現在もまだ復興途中だがアドリア海の真珠は着実にその輝きを取り戻している。

現代における世界最悪の内戦。
バルカン半島の旧ユーゴスラビア。
この戦争で、失った代償は大きく現在でも民族同士の傷痕は埋まっていない。
隣に住んでいた住民が突然明日の敵になる出来事を誰が予想できただろうか。
実はこの悲惨な経験した者がいま日本ですごく有名になっている。
サッカー日本代表監督、オシム
彼は旧ユーゴスラビアの元代表でもあり、最後の監督でもあった。
しかしあの時メンバーはすでに敵同士となり、その栄光も内戦から消え失せたのである。


アドリア海の城塞都市ドゥブロヴニクは衛生施設が発展し街並みが整えられたとしてまた、機能的な港湾都市として1979年旧ユーゴスラビアの世界遺産として登録された。
しかし、その後破壊・復興という特殊な環境に置かれた世界遺産となったのである。
またユネスコが破壊を防げなかった世界遺産でもあった。




ここにはすごく悲しい過去があります。
まだ中学生の時には戦争していたんですよね。。
日本人には民族の違いってあまりなじみがないと思います。
でも世界にとっては普通のこと。
同じ民族でも戦わなければいけない時だって。
韓国と北朝鮮がまさにそれ。
同じ民族なのに。
バルカン半島には今でも戦争の傷跡は残っています。
とうとう今年か来年、最後の独立セルビアとモンテネグロの分裂が待っています。
最後の分裂であってほしいものです。