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 【[雑学]ヨーロッパ

世界遺産雑学121--友好の橋が落ちる時--
2000.12.30
 
世界遺産雑学121

--友好の橋が落ちる時--

ここには川をはさんで別の民族が住んでいた
その中を取り持つのが川に架けられた一つの橋
彼らはこの橋を渡って生活を共にしてきたのである。
しかし、ここは友と戦うという運命をたどる場所であった


モスタル旧市街の石橋と周辺  ボスニア・ヘルツェゴビナ

ボスニア・ヘルツェゴビナ南部、モスタル
ここには街の中心に一本の川が流れている。
川の名はネレトバ川。
ボスニア・ヘルツェゴビナの中央からアドリア海に流れる川である。
この川にはモスタルの中心で一つの橋がかけられていた。
「スタリ・モスト(スタリ橋)」
この橋は街の東西をつなぐ唯一の橋であり、町の東西の交流の架け橋。
しかし、交流の橋が川に落ちる日が突然やってくる。
住民が東西に分かれて憎み合う日がいきなりやってきたのであった。

ボスニア・ヘルツェゴビナ。
この国は1991年まで、クロアチア・ボスニア・ヘルツェゴビナ・セルビア・モンテネグロ・マケドニア・スロベニアの国を抱え込んだ大きな国、ユーゴスラビア連邦だった。(雑学120参照)
しかし、この国には多種多様な民族が住んでいた。
さらにちょうど経済危機がこの国にはやってきていたのであった。
このため、利権を得ようとする民族への不満が爆発。
ユーゴスラビアは独立ラッシュとなったのであった。

こうした中、1992年ボスニア・ヘルツェゴビナにも独立か現状維持かの住民投票が行われた。
しかし、問題が一つあった。
ボスニア・ヘルツェゴビナという場所は3つの民族が住んでいたためである。
クロアチア人17%、ボシュニャク人(ムスリム人)44%、セルビア人33%という複雑な民族構成を抱えていたのであった。
こうして住民投票が行われたのだが、独立賛成は90%以上とう結果に終わった。
が、それは投票率65%未満。
セルビア人がこの投票にボイコットしたためであった。
しかし、ボスニア・ヘルツェゴビナ政府はこの投票結果を受けて独立を宣言する。

これに困ったのがセルビア人。
彼らは自分たちの土地を守るために自国に戦争を起こしたのである。
また、同じ民族の国家セルビア連邦に援助を受けたのであった。
こうしてボスニア・ヘルツェゴビナに内戦が勃発する。
首都サラエボを中心に戦争は激化。
国全体で戦火になるという事態にまで発展したのであった。
当初セルビア人はバックに同じ民族の国家が存在し、武器も多量に保管していたため、戦争を優位にしていた。
このため、クロアチア人とムスリム人はセルビア人を排除する目的で手を組み戦争員の数で攻勢をかけたのであった。
しかし、ここで驚くべきことが待っていた。
クロアチア人が突然セルビア人と手を組み、ムスリム人を攻撃し始めたのであった。
こうして内戦はいつ終わるかも分からない泥沼の争いを呈したのである。

こうして、クロアチア人が裏切ったことによって戦争が最も激化した場所があった。
モスタルの街である。
この街はネレトバ側の東側にムスリム人、西側にクロアチア人が住む街であった。
最初は共同でセルビア人を追い払っていたが突然この街に銃撃戦が始まってしまう。
彼らは突然、同じ住民と友と戦わなければいけなかったのである。
それは一つの橋を隔てた場所であった。
この場所に打ち込まれた銃弾は天文学的な数字。
ありとあらゆる場所に銃弾の跡が残る。
また、大きな施設にはすべて砲弾が撃ち込まれるという状態でもあった。

そんな戦争の中、この中心に架かる橋は銃弾が撃ち込まれても橋としての機能を失わなかった。
ありとあらゆる砲火に耐えたのである。
しかし1993年11月9日午前10時15分、クロアチア人の手によりこの橋は爆破、崩落してしまうのである。
それは、橋のたもとにムスリム人の弾薬庫があったため破壊したとも言われている。
現在、この崩落の記録が映像で残っている。
過去からの民族の友好と交流の証がここに落とされたのであった。

こうして終りのない内戦に思われたが、突如として平和がやってくる。
アメリカ合衆国の介入である。
アメリカはボスニア・ヘルツェゴビナをクロアチア人とムスリム人のものとして圧力により強引に和平を組ませた。
そして共同でセルビア人の軍事を収縮させる。
こうしてクロアチア人とムスリム人の共同国家ボスニア・ヘルツェゴビナが正式に誕生するのであった。

もちろんモスタルの町にも突然平和がやってきた。
街はアメリカの圧力によって戦争の日から一転、平和の日を迎えることになる。
こうしてモスタルには世界各国の援助や街の修復が開始される。
そんな中彼らの中には友好の橋、スタリ・モスト(スタリ橋)をかけることを願った。
そして2003年8月22日ムスリム人大統領とクロアチア人副大統領の手によって最後の石が積まれ、晴れて友好の橋は再びその姿を現したのである。
しかし、この橋がかかったなお住民の中にはわだかまりがとれていないのが現状。
なぜならば町内会の中で戦争が起きたようなもので、住民すべてが誰が家族を殺したか、誰が友人を殺したかなどすべてを知っているのである。
自分の家族を殺したのは隣人であったという事実がここには残っているのであった。



モスタルに残る旧市街と石橋は違う民族や文化が共存する地域として、また国際協力と人々の努力によって平和を取り戻した街として世界遺産の登録例としては珍しい、普遍的重要性を持つ出来事を物語る場所として2005年世界遺産に登録された。
それは友好の橋が再びつながった2年後のことであった。




つらい歴史がここには存在します。
前回の雑学を同じ戦争によるものです。
昨日の友達が今日の敵。
そんな状況が実際にあったのです。
友達を本気で殺さないと自分が殺される。
悲しい過去をこの世界遺産は伝えています。