TOP > ひさほゆうのリアルタイム世界遺産旅行ブログ

カテゴリー
ひさほゆうが独自の視点で世界遺産を解説!
最新コメント

 【[雑学]ヨーロッパ

世界遺産雑学135--天才が残した奇跡の絵と一つの失敗--
2000.12.30
 
世界遺産雑学135

--天才が残した奇跡の絵と一つの失敗--

修道院の食堂
この小さい窓しかない場所に残る絵画
それは世界の天才が描いた奇跡の絵
500年の歳月もかけ再び人々の前に姿を現した


ミラノのドミニコ会修道院と「最後の晩餐」  イタリア

イタリア、ロンバルディア州ミラノ。
イタリアの北部にある立地条件のため、昔よりヨーロッパの東西南北を結ぶ中継地点として発展。
街には多くの人が集まり、活気のある街として有名。
そんな街には一つの修道院がある。
「サンタ・マリア・デッレ・グラッツッィエ修道院」
ここは中世ヨーロッパにおいて多大な財を投入された場所。
しかし、注目すべきはその場所ではない。
その修道院で働く修道士のために建てられた食堂。
この壁に残されている一枚の絵
天才レオナルド・ダ・ヴィンチが残した「最後の晩餐」


ミラノにサンタ・マリア・デッレ・グラッツィエ修道院が建てられたのは1492年。
当時、ミラノを支配していたルドヴィコ・スフォルツァ公によって建設が命じられる。
実はこのとき、すでに修道院の原型となる建物は建てられていた。
しかし、厳格なドミニコ会の修道院として建てられたため内部はゴシック様式ではあるが、装飾も少なくただ祈りを捧げる場所であった。
その建築が気に入らなかったミラノ公は急きょ建築家を変更。
依頼されたのが天才建築家「ブラマンテ」である。
こうして、ブラマンテに変更してから修道院はルネサンス様式に変更。
巨大な天井を要した聖堂、大きな中庭をもった修道院。
壁にはありとあらゆる装飾がされた。
贅をつくした修道院が完成したのである。

では、どうして中世のミラノ公がここまでの修道院を建てられたのか。
それは、当時のミラノはフィレンツェ、ヴェネツィアと並ぶほどの強国だったためである。
ミラノはフランス、ドイツ、ローマ、ヴァティカンなどちょうど中心の位置にあり、交易により発展。
海上交易のヴェネツィア、ヨーロッパの銀行であったフィレンツェと同じで、陸の交易でミラノは繁栄をもたらしたのである。
ミラノ公スフォルツァは当時の権力を「ローマ教皇は私の司祭、フランス国王は私の従者」と呼ぶほど強大な力を手にしたのである。
このため、豪華な修道院を建設することができた。
また、それを建てるための建設者ものちにヴァティカン・サンピエトロ大聖堂の建設者となるブラマンテを起用できたのである。

そんな増大な権力をもったミラノ公はもう一人の天才に依頼をお願いする。
修道院の中にある食堂の壁に最後の晩餐の絵を描いてほしいと。
その依頼を受けた人物こそイタリアが生んだ孤高の天才
「レオナルド・ダ・ヴィンチ」
彼はこの依頼を快諾。
さっそく、食堂に絵を描き始めたのである。
しかし、この絵には天才がゆえの失敗と天才がゆえの成功が同時に存在してしまうことになる。
天才の失敗とは絵の具である。
当時の絵画の描き方はフレスコ画と言って漆喰を塗った後に固まる前に顔料を壁に着け色を定着させる技法。
この技法は漆喰の中に顔料がしみこむため後世まで絵が残るが漆喰が乾燥する前に書かなければいけないという欠点が存在した。
ダヴィンチは気分が乗らないと描けない人でさらに何度も書き直す人であったためフレスコの技法が合わなかったのである。
そこで開発したのがテンペラ画である。
顔料に卵などの溶剤を混ぜ、乾燥した漆喰に直接描く技法。
いつでも書きたいときに描けるという利点があったためこの方法を採用したのである。
が、このテンペラ画には最大の欠点があった。
漆喰に乗っているだけのため、ひび割れや崩落が起きやすいという難点があった。
このため、ダヴィンチが描いている最中にもひび割れが発生。
一度は本人自ら一度塗りなおしたがダヴィンチがミラノを去るとそのまま放置されてしまうことになってしまうのである。

こうして完成した天才の絵「最後の晩餐」であるが、その後は悲劇の歴史をたどることになる。
完成から50年すると絵の半分以上が損傷。
その後何度も修復が繰り返されるが油彩で原画を書き換えたり、指を一本付け加えたり、熱した鉄で強引に壁に顔料を塗りこむなど当初の絵とはかけ離れた絵となってしまったのである。
このことから失われた名画と呼ばれるようになったのであった。
そんな失われた名画に挑んだ一人の女性がいた。
修復家ピニン・フランビッラ
彼女はこの失われた名画の修復の責任者。
この絵を見た時に余りの修復のひどさに愕然としたが、彼女はそれに真っ向から立ち向かった。
最新の工学顕微鏡を使い、成分を分析。
修復に使われた絵の具などを特定し、その洗浄方法を選別。
少しずつ修復を試みたのである。
そして修復開始から20年後の1999年、ダヴィンチの描いた最後の晩餐が再び日の光にあたることとなった。
修復前と後では全く別の絵となっていたのである。

こうしてダヴィンチが描いた最後の晩餐が皆の眼に焼きつけられるようになってからダヴィンチの絵が研究されるようになる。
そこで、研究者達はダヴィンチの天才たる成功を間の当たりにするのである。
まずは、遠近法の確立。
中心には一つの穴が開いておりそこに杭を立てて線を引き遠近の技術を確立させたことがわかった。
また、聖12使徒の絵はそれぞれの生い立ちにより描き方を変えている。
たとえば聖トマスはキリストの復活を誰よりも願った人物。
そのため、復活の証の指を上に向けてあげている。
また、裏切り者のユダの隣の二人はキリストが最も信頼を置いた聖ペテロ・聖ヨハネという構造にもなっているのである。
まさしく、レオナルド・ダ・ヴィンチの最高傑作であったことが間違いないのである。
さらに天才がゆえにこの絵に何かしらのメッセージがあるのではと研究者たちは躍起になっている。
その一つの例として実はキリストが結婚していたのではという疑惑である。
その証拠に最も溺愛していた弟子・聖ヨハネを見ると明らかに女性に見えるのである。
これはキリストの復活を最初に発見した娼婦:マグダラのマリアという説がある。
マグダラのマリアはキリストの妻であり子供を残したという話が存在するが、それは誰にもわからない。
なぜなら聖書とは書き換えられた本だからである。
ローマ皇帝、コンスタンティヌス帝。
彼がローマ帝国に初めてキリスト教を国教として認めた人物であり、その時にクレルモン公会議によりキリストの教えが整理されている。
ローマ帝国に都合が悪いことはすべて異端として削除。
歴史から消し去ってしまった事実があるのである。
天才レオナルド・ダ・ヴィンチが解き明かした謎を伝える「最後の晩餐」は今でも誰にも気づかれずに歴史を語っているのかもしれない。


ミラノに残る修道院とそこに描かれる「最後の晩餐」はミラノの栄華を伝える建物として、またレオナルド・ダ・ヴィンチが残した最高傑作が残る場所として1980年世界遺産に登録された。
世界最大の天才とも呼ばれる彼が何を伝えているのか、天才しかわからない問題である。





すごく、見てみたいんですよ。
モナリザ見た時も感動しましたし。
ただ、すごく暗いって有名ですけど。
モナリザもすごく暗いですし。
でもそれでも天才の最高傑作を眺めてみたいです!!