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 【[雑学]アジア

世界遺産雑学138--奪い尽くされた仏教の宝--
2000.12.30
 
世界遺産雑学138

--奪い尽くされた仏教の宝--

そこは砂漠の中
近くにはオアシス都市が繁栄していた
物静かなところは仏教徒にとってかけがえのないお祈りの場所
世界最多を誇る石窟群がそこにはある。


敦煌の莫高窟   中国

中華人民共和国、甘粛省。
その中にある巨大な都市こそオアシス都市敦煌。
ここはかつてシルクロードの交易地として繁栄。
特に、敦煌を境にして東を中国、西を西域と呼ぶほど境界線に位置していた。
中国から輸出するもの、中国に輸入するものすべてはこの敦煌に集められそして旅立っていったのである。
そしてこの敦煌の近くにあるのが莫高窟。
シルクロードを渡った仏教がこの地で繁栄する。
彼らは岩を掘り、その中で瞑想した。
それも1000年にわたって。
静寂の中、仏教徒は祈り続けたのである。


敦煌の近くに石窟が建てられたのは五胡十六国時代にさかのぼる。
紀元4世紀半ばにその地を治めた前秦の時代。
この地の東側から一人の僧侶が訪れた。
彼はこの地で突然の天からの光を見て、この地を修行の地と定めた。
こうして彼は一つの石窟を掘りその中で瞑想に明け暮れたのである。
そしてまた一人、また一人と次第に石窟を掘りここに巨大な石窟群が形成されることになるのである。
特に、この場所に石窟群が建てられた大きな理由があった。
彼らの修業とは瞑想を繰り返した中でその姿を想像し彫刻や壁画に表し、次第に悟りを悟るという修行。
このため、瞑想する静かな場所と石などが必要であった。
また、彼らはその場所で生活するため水と食料が必要であったのである。
これに適した場所が敦煌の莫高窟。
24km先には敦煌の街があり、半日歩けばたどりついた。
また、適度に離れた場所にはオアシスがあり生活には困らなかったのである。
さらに大きな点としてこの石窟場所が砂岩で形成されていたことが大きい理由であった。
砂岩とは砂によって形成された岩。
砂が堆積し、長年の圧力によって岩へ変化したものである。
この岩の特徴としては掘りやすいという利点があった。
このため、彫刻や石窟には最適な場所であったのである。
もしこれが花崗岩などの堅い石であったらこの場所は存在しなかったのかもしれない。

こうして最初の石窟が建てられてからおよそ1000年間、この地は祈りが絶えなかった。
その石窟の数735箇所。
総延長は1700m、高さが40mの中にびっしりと石窟がひしめき合っている。
この中で分類上番号が付けられたのが492箇所。
中には30cmの石窟から高さ40mの石窟までまちまち。
建てられた時代も様々で唐の時代が最も多い。
特に石窟の中で最も大きくて保存状態が良いのが第96窟。
唐から宋代に建てられた石窟で高さ33m。
9つの層が連なった石窟で中には莫高窟最大で高さ12.5mの仏像を安置している。
壁画もすべてを含めると全長25kmもの壁画となり、仏教のさまざまな出来事、教えなどが描かれてある。
特に各時代の壁画はその時代に最も栄えた画風となっているのが特徴。
仏教の歴史をそのまま反映しているのである。
仏像も2415体を数える。
そこはまさしく、中国仏教の粋を集めた場所となったのである。
現在中国には三大石窟が存在し、龍門石窟・雲門石窟(共に世界遺産)とともに莫高窟もその名を連ねている。

こんな1000年以上繁栄をした莫高窟であるが、あるとき終りの時を迎える。
明王朝の到来である。
歴代の中国の王朝はすべて仏教を推奨していた。
もちろん、この民も例外ではなかった。
しかし、明には大きな悩みがあった。
北方民族の存在である。
中国の歴史とは秦の時代より北方民族との争いであった。
現に北方民族が中国を征服した例がたくさんあったのである。
特に明は前王朝の元の後にできた王朝であった。
元は北方民族・チンギスハーンが建てた王朝。
このため、明は北方民族に対して一段と警戒を強めたのである。
そして明が行った政策とは万里の長城の再建であった。
しかし、万里の長城は一番西の嘉峪関を境に建設は終了する。
そこは大河で区切られ北方民族が入れない場所であったためである。
こうして嘉峪関より西に万里の長城が作られることがなく、明はその西の領土を破棄。
敦煌は別の国に属されることとなったためである。
仏教徒は中国へと移り住んだのであった。
以降、清の時代再び敦煌は中国の領土となるが交易の拠点はすでに海へと移り替わり敦煌が発展することはなかった。

こうして忘れ去られた莫高窟であるが1900年一躍世界の注目を浴びることになる
それは「20世紀の大発見」と呼ばれるほどに大きな出来事となった。
これこそ、道士の王圓籙による数万点の仏教文書の発見である。
王圓籙は第16窟を修行の場としていた。
その時に通路にたまった土砂を取り除く最中に隣の窟へ通じる道を偶然発見したのである。
その場所から出てきたものは大量の古写本や仏画類。
文字もサンスクリット語、チベット語、カローシティー語、ソグド語など数多くの言葉が使われていた。
中には失われた言葉さえ。
すべては当時の文化、風習などを知るためにとても貴重な文書であったのである。

しかし、この事件が莫高窟を略奪という暗い歴史へと追い詰めることとなってしまう。
それは文書の海外流出である。
この情報を聞きつけた各国の探検家は真っ先に莫高窟を訪れる。
そして王圓籙に安価な価格で大量の文書を手にしてしまうのである。
特にイギリス人探検家オーレル・スタインは数千点の文書・写本・絵画などを手にしイギリスへと持ち帰る。
その後もフランス・アメリカ・日本・ロシアの探検家がそれぞれ文書を自国へ持ち帰ってしまうのであった。
特に最悪なのがアメリカのラングドン・ウォーナー。
彼は一番遅くこの莫高窟にやってきたため珍しい写本が残っていなかった。
このため、彼は壁画をはがしアメリカへ持ち帰ることを決意。
中国住民には他国に取られないためと損傷が激しいためはがした方が良いと報告し、まんまと鵜呑みにさせたのである。
しかし、彼は重要な部分の壁画しか持ち帰らなかった。
このため壁画は虫食いのようにちぐはぐとしたものとなってしまったのである。
こうして彼は中国にとって文化の破壊者というレッテルを貼られてしまうのであった。
現在、敦煌の写本は世界各国の美術館へと収蔵されている。
が、すべて元の場所に戻ることは二度とない。
敦煌の文書を売ってしまった王圓籙はその後の罪の意識から売ったお金で莫高窟前にポプラの木を植え続けた。
それは、防風林として風化を最小限に食い止めようとする彼の罪の願いである。


敦煌に残る莫高窟は中国の1000年にもわたる仏教の移り変わりが残る場所として、仏教美術の最高傑作が残るとして、中国の心のよりどころとして1987年世界遺産に登録された。
それは世界文化遺産の登録項目ですべての基準を満たすとして登録されているのである。





ここはあと半年後には行っていると思います。
すごく行ってみたかったんです。
1キロにもわたって石窟が続いているんですよ!!
どれだけ中国の歴史に感動するのか。
今から楽しみです!!