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 【[雑学]アジア

世界遺産雑学142--水に囲まれた平和な都--
2000.12.30
 
世界遺産雑学142

--水に囲まれた平和な都--

四方を水に囲まれた都
そこは天然の城壁であった
また、水不足に悩んでいた国にとってここは天国であった。
ここは世界一繁栄した平和な都


アユタヤと周辺の歴史地区  タイ

アユタヤ朝の首都、アユタヤ
タイ王国の首都バンコクの北70kmにある水にあふれた街
街の4方を川に囲まれ、どこにいても水の香りが漂う。
特にアユタヤの中でも大きな川はチャオプラヤー川。
河口に行くとバンコクの街に辿り着く。
この街にはかつて世界で最も繁栄した都市が残っている。
現在でも崩れているがたくさんの寺院が残り、かつての繁栄を今に伝えている。
それはこの街が平和の都だった象徴。
たくさんの外国人がこの地を訪れた。


時は14世紀。
当時の王はウートーンという首都を放棄してこのアユタヤにやってきた。
それはウートーンの街には慢性的な水不足が起きておりそれに伴って疫病がはやってしまったためであった。
このため、王はこの地に訪れると水が豊富にある楽園に思えた。
まさしくインド叙事詩に出てくる「平和の都」に思えたのである。
こうしてサンスクリット語で平和の都を意味するアユタヤと名前を変えこの地に移り住んだのである。
これがアユタヤ朝の始まりであった。

アユタヤ朝が開かれたあと、アユタヤはかつてない繁栄をしていくことになる。
それを支えたのが王の神格化である。
当時、インドシナ半島ではアンコール朝が君臨していた。
そのアンコール朝がとっていた政策こそ王の神格化。
王は神であり、絶対不可侵の存在。
反乱は神への冒涜であり、天国へいけないことを意味していたのである。
このため、王に逆らうものはおらず王国は繁栄の一途をたどるのであった。
アユタヤもこの政策をとるとたちまち繁栄。
瞬く間にカンボジアのアンコール朝を滅亡させる。
その後、北の王国スコータイ朝も併合することに成功。
インドシナ半島のほとんどを領地とする一大国家を築いたのである。

しかし、こんなアユタヤ朝にも悩みの種があった。
ミャンマーの地を治めていたビルマ軍の侵略である。
アユタヤ朝は2度のビルマ軍の侵攻に耐えた。
時には王だけでなく王妃までもともに戦い、王を守るために王妃が盾となりその時の怪我で亡くなってしまうほど激しいものであった。
こうしてビルマの侵攻を食い止めながらアユタヤは繁栄していく。
歴代の王が即位の度に寺院を建て、大量の寺院がアユタヤの街を覆うことになるのであった。
このように繁栄を繰り返していくアユタヤであったが、3度目のビルマ軍の時にアユタヤは占領されてしまった。
すべてを略奪され、人々はすべてビルマへ連れ去られてしまう。
ビルマ軍は自分の思い道理に操れる人物を王に即位させたのである。

こんな屈辱の歴史を味わったアユタヤはこの状況を一気に変化させることに成功する。
その人物こそ、操られた王の息子ナレースエンである。
彼は幼少ビルマで奴婢として生き、辛い人生を送った。
その後アユタヤに戻ったがビルマに従っていたのである。
しかし内心では独立することを心に決め秘密裏に兵を集めていたのであった。
そしてチャンスはやってくる。
ビルマで内紛が発生するのである。
このチャンスを逃さずにナレースエンはアユタヤの独立を宣言。
ビルマ軍が再び進行してくるが、ことごとく勝利。
アユタヤは再び繁栄をたどっていくのである。

こうして16世紀から18世紀にかけてアユタヤは世界で最も栄えた街へと変貌していく。
近隣諸国との交易やヨーロッパなどの貿易でたくさんの富を手に入れるためであった。
一番栄えた時に高さ20m、厚さ5mの城塞に囲まれた堅固な要塞として変化し、3つの王宮、29の要塞、375つの寺院があふれる都となったのである。

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当時の人口は19万人を超え、世界でも巨大な大都市へとなったのである。
街には交易をする者たちが移り住み、日本人街やポルトガル人街などの外国人移住区なども設けられていた。
イギリスから訪れた者は
「アユタヤを見るとロンドンは片田舎にしか感じない」
と言わせるほど国際都市アユタヤは繁栄していたのである。

また、当時の外国人は貿易商人と同時にアユタヤの戦闘要員としても重要視されていた。
特にすごかったのが日本人山田長政。
静岡県生まれの長政は江戸時代の安定した世の中では自分は出世しないと考えるとアユタヤに移り住み次第に頭角を現していく。
さらに日本人は戦国時代を経験しているため勇敢に戦える精鋭であった。
このためその長である長政は重宝され、外国人としては異例の官位までいただく出世ぶりであった。
しかし、長政もアユタヤの王の即位争いに巻き込まれ暗殺されてしまう。
それだけ外国人を登用し、権力争いに巻き込まれるほど重要なポストについた証でありいかに外交的な国家かがわかるのである。

このように世界でもかつてない繁栄をしたアユタヤであったが最後は略奪・破壊という歴史で幕を閉じることになる。
それこそ再びのビルマ軍の侵攻である。
1767年、ビルマ軍の手によってアユタヤは陥落。
ビルマ軍は金銀財宝をすべて略奪。
仏像の顔の部分をすべて破壊してしまったのである。
こうして現在、アユタヤには破壊された後の寺院が残る。


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中には長年の月日により仏像の顔が木に覆われたものまで。
しかし、寺院の数や仏塔などから当時の繁栄ぶりは読み取れる。
今でも寺院は当時のことを語りかけてくれるのである。


アユタヤに残る寺院群は上座部仏教の王宮や寺院群を残し、アユタヤ朝の首都として国際貿易都市として栄えた証があるとして1991年世界遺産に登録された。
平和の都は略奪されてしまったがその姿を今日に伝えているのである。




ここすごいです。
一日じゃ全部の寺院見れないんですよ。
それだけ多い。
また、この街広い。
行けども行けども寺院が見える。
それだけ繁栄し、栄えた街だということが読み取ることができますよ!!