TOP > ひさほゆうのリアルタイム世界遺産旅行ブログ

カテゴリー
ひさほゆうが独自の視点で世界遺産を解説!
最新コメント

 【[雑学]アジア

世界遺産雑学146--世界の歴史の中心であった世界最大の宮殿--
2000.12.30
 
世界遺産雑学146

--世界の歴史の中心であった世界最大の宮殿--

ここはかつて巨大な帝国を持っていた
支配は変われど550年もの長きにわたって君臨した宮殿
世界で最も巨大で繁栄を現した場所
そこは「紫禁城」


北京と瀋陽の故宮  中国

中華人民共和国首都、北京
世界最大の人口を抱えた国の首都である北京は日本の北海道と同じぐらいの緯度にあり、気候も四季が存在し比較的涼しい。
ここにある故宮こそ紫禁城である。
中国の歴史の1/4がここで作られた。
それは明・清と、たった2つの支配しか受け継いでいないが550年にもわたり帝国の都として君臨し続けた場所。
すべての権力はここに集められ帝国の粋が集められたのである。

北京の故宮の始まりは明の成立にはじまる。
1351年中国を支配していた元から反乱起こる。
「紅巾の乱」
黄河の治水工事に駆り出されていた農民が反旗を上げその中の朱元璋が元を打ち破ったのである。
こうして朱元璋は明を樹立、みずからを洪武帝と名乗ったのである。
明は首都を初めて北京に置き内政に力を入れたのであった。
安定した世の中になった際に皇帝が行ったもの。
自分の宮殿の建設である。
永楽帝の代に皇帝は紫禁城の建設を命ずる。
この宮殿作りは世界でも例を見ない壮大なもの。
資材調達に10年。
職人・匠・労働者を合わせると123万人にも上るのであった。
この膨大な労働力のため、着工から4年という短い工期で紫禁城は完成する。
紫禁城が完成してからわずか4年で永楽帝は死去してしまうが、その後明の宮殿として増改築を重ねたのである。

紫禁城完成から220年ぐらい時がたった時、朝鮮に一つの国が始まった。
ヌルハチを元首とする「後金」である。
後金は現在の中国の瀋陽を首都とした。
その後息子ホンタイジが後金から「清」へと国名を変えたのである。
そんな中、中国の明において滅亡の時がやってくる。
李自成による北京陥落である。
しかし、ホンタイジはこのチャンスを見逃さなかった。
李自成が北京を陥落させてからわずか40日後北京へ侵攻すると、李自成はホンタイジに反抗することなく西安へと逃亡したのである。
こうしてあっけなく北京を支配したホンタイジはその後中国を統一。
中国に清の帝国が君臨することになるのである。
清はその後中国で2番目の巨大な帝国を気づくことになる。
現在のロシアの一部・モンゴル・現在の中国のすべてを領土としたのである。
清は首都を瀋陽から北京に遷都し、明の紫禁城をそのまま自分たちの宮殿としたのであった。
その後、清は250年の多岐にわたり中国を支配した。
その中でも、第3代康煕帝、第4代雍正帝、第5代乾隆帝の時に清は最高の繁栄を見せる。
平和という安定した時代がもたらされたのである。
この間には皇帝は世界から数々のコレクションを集め、世界史上類を見ないコレクションが集められたのであった。
中にはヴェルサイユ宮殿を真似て作られた庭園まで。
史上最大の繁栄がここにはあったのであった。

この紫禁城は実は風水と宮殿建築の理想に基づかれて建てられている。
明の時代はすべてを風水で決める風土があった。
このため、風水で良いとされている左右対称が基本とされた。
このことから南の午門から北の神武門を一直線でつなぎその軸により左右を対称としたのである。
また、吉数とされた「9」をもとに9999室作られたという伝説まで残る。
現在には9999室はないが、南北961m・東西751mに囲まれた外壁の中に様々な建物が残っている。
この中でも特にすごいのが故宮外朝。
3万m2の広さを有する広場があり、その先には紫禁城最大の建物、太和殿。
太和殿は皇帝が即位や式典を行う場所であった。
唯一皇帝に会える許可を得たものがこの広場にひざまずき遠くの皇帝を見ることができたのである。
内外に中国の力を見せるために、この場所は特に壮大に荘厳に作られた。
見る者に中国に逆らう意志すら持たせなかったのである。
その太和殿の後ろには中和殿、保和殿がそびえる。
こちらは式典の時の休憩場であったり、宴を行う場所であったりさまざまな目的で使用された。
特に科挙はこの場所で行われ、大陸中の人々はこの豪華絢爛の中、自分の能力を見せたのであった。
すべては皇帝の象徴とする黄色い瓦を屋根に乗せ、中国最高峰の建築で建てられた。
550年にもわたる中国の歴史はこの場所に集められたのであったのである。

また、瀋陽にある故宮は清の前身、後金の宮殿である。
後金の初代王ヌルハチが建造した宮殿であり、都が北京に移されると離宮として存続し続けた。
すべては漢民族の建築を踏襲しながら、モンゴル族などの文化・風習を基にして作られた、独特な建築様式。
中国内でもこれほどまでに完成された建築が残っていない。

そんな中国の歴史を象徴する場所にも最後の時がやってきた。
1912年に起こる列強による北京陥落である。
その頃の清にはかつてほどの力は残っていなかった。
それは中国にヨーロッパ列強や日本が進出したためであった。
当時、中国には大量のお茶が出回っていた。
そんな中イギリスではお茶がブームとなる。
大量のお茶を輸入し、中国は莫大な富を得ていたのであった。
これに不満を持ったのがイギリス。
一方的な貿易だったため赤字が深刻な問題となったのであった。
このためイギリスはあるものを中国に輸入することを考える。
「アヘン」麻薬である。
麻薬であるため、瞬く間に中国に蔓延しこれに危機感を持った清はイギリスにアヘンの輸入を禁止する。
この対抗策に怒ったイギリスは清に対して戦争を起こすのであった。
その戦争こそ「アヘン戦争」
この戦争はイギリスの圧勝に終わり、東洋の眠れる獅子と恐れられていた中国は実は弱いことが判明。
各国が瞬く間に中国へと進出したのである。
英仏連合軍の侵攻、清仏戦争、日清戦争などなど。
すべては清の敗北に終わり国力は瞬く間にどん底まで落ちたのである。
そんな中、清に一人の皇帝が即位した。
ラストエンペラー、溥儀である。
かれはわずか2歳で即位し、即位の儀では泣きじゃくった即位であった。
その4年後、列強の北京進出により紫禁城陥落。
250年続いた清の支配に終わりを迎えるのであった。
溥儀6歳の出来事だった。
その後溥儀は日本が作り上げた満州国の王として支配された王の運命をたどっていくのである。
現在残る建物は壊されることなく、現在の世の中まで存在する。
中国の550年の歴史をここに表しているのである。


北京と瀋陽に残る故宮は世界最大の宮殿建築として、また建設当時の姿をほぼ保っており中国歴史における最高の建築で建てられているため1987年に紫禁城が、2004年に瀋陽の故宮が世界遺産に登録された。
中世から近代に渡る中国の歴史はここから作られたのである。




ここには2か月以内に行きます!!
やっと中国ビザ習得しました。
私の行ってみたい世界遺産のベスト10に入る場所。
500年の歴史がすべて壊されずに残る。
奇跡の場所といっても過言ではないのです。