TOP > ひさほゆうのリアルタイム世界遺産旅行ブログ

カテゴリー
ひさほゆうが独自の視点で世界遺産を解説!
最新コメント

 【[雑学]オセアニア・ミクロネシア

世界遺産雑学148--特殊な世界遺産Vol.27--
2000.12.30
 
世界遺産雑学148

特殊な世界遺産Vol.27
「建築学」

--最も新しい世界遺産--

神秘的で複雑な建物
この場所はこの国にとっての代表する場所と変化した。
それは世界遺産で最も新しい建築
ほんの34年前に完成した世界遺産


シドニー・オペラハウス  オーストラリア

オーストラリア最大の都市、シドニー
この場所はメルボルンと並びオーストラリアの経済・文化の中心地
2000年に20世紀最後のオリンピックが開催された場所
こんな世界で最も美しい都市と称されるこの地には一つのシンボルがある。
その場所こそ、オーストラリアを紹介する上で最も有名な所
それこそシドニー湾に面しているオペラハウスとシドニー・ハーバー・ブリッチ。
シドニー湾の反対から眺めるこの2つの場所はまさしく建築と風景の融合を見せている。
完成したのが1973年。
それ以来ここはオーストラリアを象徴する場所と変化したのである。


時は1950年になろうかという時代。
当時のニューサウスウェールズ州立音楽院校長のユージン・グーセンスはある悩みを抱えていた。
それはオーストラリアには大型の劇場がなく、演劇の繁栄が困難であったことにあった。
このため、彼は大型舞台装置を完備した劇場を建設することを政府要人に訴え続けたのである。
ひとりひとりを説き伏せたグーセンスはとうとう5年の歳月をかけ首相の許可を得ることができたのであった。
またその建築場所も論争の一つになっていた。
当時の首相は別の場所を希望していたが、シドニー湾の対岸にあるマッコーリー要塞跡地の路面電車の倉庫が並ぶ場所をグーセンスは希望した。
首相の考えを半ば強引に押し切り自分が希望した場所へと建設を認めさせたのである。

こうして大型劇場の建設が決まると首相は世界に向けてオペラ劇場のデザイン案のコンペを発表した
1954年の出来事である。
そして世界各国から様々なデザイン案が届いたのである。
それは合計233件にも上ったのであった
その中から一つの案に注目が集まる。
当時無名であったデンマーク建築家「ヨーン・ウッツォン」がデザインした案
それは二つの建物が寄り添うように並び帆や貝殻をイメージした建物である。
実はこの案は一次選考で落選した案であった。
しかし、審査委員の建築家がウッツォン案を支持し最終選考に再び復活させたのであった。
こうして彼の案で建設することを決定。
ウッツォンはデンマークからオーストラリアへと海を渡り建築の指揮を執ったのである。

しかし、結果的にこの計画は完成予想よりも完成が10年も遅れることになる。
当初は1963年完成予定が1973年完成へと大幅に遅れることとなった理由が補強問題である。
当時首相が公募したのはデザイン案だけであった。
このため、みな素晴らしい案を提出したがその案にはどれも構造設計は組み込んでいなかったのである。
要するにデザインは決まったがそれをどのように建てるかはいまだに決まっていなかったのであった。
特に採用された案は帆や貝殻型をしており、シドニー湾に面する立地条件では風が一番のネックになっていた。
帆型をしている場所は大きく風を受けることになり強力な構造でなければいけないことが判明したのである。
屋根の重さにも耐え、風の力にも耐え、さらに放物線を模るような構造。
設計でたくさんの苦悩があり、さらに出てきた案を精査し風洞実験を行っていたのであった。
しかし、風洞実験はすべて失敗していたのである。

こうして、こんな実験を行っていたオブ・アラップ社はある一つの結論に達した。
現時点のウッツォンのデザイン案ではどんな方法を用いようと建設することは不可能だと。
このため、ウッツォンはその解決策としてデザインの若干の変更を余儀なくされる。
解決案としてはシェルすべてを同じ球面で組み合わせること。
屋根の全体に補強材を入れて強度を補強すること。
この2つが考えられた。
こうしてこの解決案は工期を縮めることを意味しており多くの設計者から賛同されたのであった。
この解決案からオブ・アラップ社は構造設計をやり直し、見事に風洞実験を成功させたのである。
急ピッチで建築がすすめられたのであった。

こんな中、またしても一つの事件が起こる。
ウッツォンの建設辞任である。
実はこの時点でのオペラハウスの建設に当初の4倍もの資金がつぎ込まれていた。
日に日にこの事実を無視できなくなった政府は正式に公共事業省へと建築を移したのであった。
これにより工期が厳重に管理されることとなり、ウッツォンに工期予定の提出を求めたのであった。
しかし、この案に対し公共事業省は保留の態度を示し、徐々にウッツォンと対立を深めていくのである。
こうして自分の思い通りに建設を進めることができなくなったウッツォンは突然辞任を発表する。
彼の辞任会見では公共事業省との関係を事細かに話され、現場は一気に混乱を極めたのである。
これにより、数人の建築家へ権限が移譲。
ウッツォンの案に手を加えられ建設は進んでいった。
ウッツォンが計画したこととは異なる方向へ。
しかし、唯一外観はすでに完成したため見た目の大きな変更がなかったことが唯一の救いであった。

こうして1973年、シドニー・オペラハウスが完成する。
着工から18年後のことであった。
しかし総工費は当初の14倍にも膨れ上がり公費に限界があったため宝くじなどの収益金で補てんしたのである。
完成後はオーストラリアの心の拠り所となり、オーストラリアの象徴にまでなった。
2000年にはウッツォンとの合意のもと計画で変更された部分をウッツォンの計画通りの内装へ再建。
まさしく、ウッツォンがデザインしたオペラハウスへと変貌したのである。


オーストラリアの象徴、シドニーのオペラハウスは20世紀を代表する建築家の最高傑作として1981年に一度申請されたが登録には至らず、2007年改めて世界遺産に登録された。
この場所はまさしく世界遺産の中で最も新しく建てられ世界遺産となったのである。




は~い、建築の世界遺産。
実はほんの1か月前に登録されたばかりです。
この世界遺産が登録されたときに何でこんな新しいものが世界遺産になるのかということをテレビでやっていましたが、新しくても守るものは世界遺産です。
それにしても完成からわずか8年後には世界遺産申請していたなんて驚きです。