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 【[雑学]ヨーロッパ

世界遺産雑学149--紀元前500年から君臨する世界の中心--
2000.12.30
 
世界遺産雑学149

--紀元前500年から君臨する世界の中心--

ここには各時代のさまざまな建物が残る。
それこそこの場所が歴史の中で繁栄をつづけた街
すべての歴史、すべての道はここに通じた
2500年もの間君臨し続けた奇跡の場所


ローマの歴史地区  イタリア

イタリアの首都、ローマ
この場所はイタリア第一の都市であるとともに歴史上もっとも繁栄を極めた場所。
街にはローマ帝国の遺構が残り、キリスト教の最大聖地ヴァティカンを抱え込んだ巨大都市がある。
また中世の世の中では驚異の人口100万人を記録した。
その証拠にローマには先進国の中で最も地下鉄が少ない街。
それは地下を掘れば掘るほど遺跡にぶち当たり掘削が困難になったためである。
これだけローマの地下にはいまだに様々な遺跡が残っている。
2500年もの栄華を極めた街はいまだにその全容が分かっていない。
ここはまさに世界の中でも歴史が最も深い奇跡の場所なのである。


ローマの地に街が建設されたのは紀元前8世紀~7世紀にかけてと考えられている。
この地に移り住んだラテン人、サビニ人によって都市が築かれた。
それはこの場所に七つの丘があり、また水が豊富にあったことが理由であったと思われている。
また、伝説によればローマと名付けられた理由として羊飼いの双子の王子ロムルスが七つの丘の一つに街を築いた際に自らの名前をもじった名前ローマと付けられたとされる。
こうして、各丘はしだいに統合し一つの大きな街が出来上がった。
そして街は次第に発展することとなる。

そんな中ローマにはエトルリア人支配の後、大きな転換期を迎える。
王政の廃止である。
権力を古代ギリシア文明に習い王から市民へと移行したのであった。
こうしてローマの街に民衆の集会場が設けられ、彼らは政治家の演説に耳を傾けたのである。
ローマは支配が民衆に移ったことにより、民衆自身が国を動かすことを実感。
次第に愛国心が芽生え、自国の領土も愛国心のある戦士が戦争を起こすことによって次第に拡大したのである。
その頃になるとイタリア半島だけではなく、バルカン半島・チュニジアあたりまで領土を増やしていった。

こんな市民中心の国家ローマ帝国ではある一つのブームがおこっていた。
「雄弁術」である。
これは自分のしゃべったことをいかに正当に市民に伝えるかということ。
自分が喋ったことが認められればそれが実行され、政治を握れることを意味していたのである。
そんな中二人の演説が次第に市民にひかれるようになる。
一人は「キケロ」
彼は自分の暗殺計画が秘密裏に動いているのを知ると真っ先に市民の前で演説を行い、今の自分の状況やこんな不条理なことが帝国で行われていることをとうとうと語ったのである。
この演説が引き金になり暗殺計画の首謀者は元老院につかまり、キケロは無事助かったのである。
そしてもう一人は「ユリウス・カエサル」である。
この元老院につかまった暗殺者の弁護をしたのがユリウス・カエサル。
彼らたちの処分を巡り、キケロとユリウス・カエサルは市民の前で大熱弁を繰り広げられた。
双方の意見はどちらも正当に思えたのである。
最後にはキケロが勝ったが、市民はユリウス・カエサルの熱弁を忘れることができなかったのであった。

こんな歴史を歩んだローマに一つの事件が起こる。
三頭政治の崩壊である。
このときローマの実権を握っていたのは3人の執政官。
名士ポンペイウス、富豪クラッスス、雄弁者ユリウス・カエサルである。
3人の意見はすべて多数決で決められ、それぞれが領土の拡大のために戦地に赴いた際も一人はローマにいて政治を見ることができたのである。
しかしあるときクラッススが戦死をしてしまう。
こうして2人となった時にローマに残っていたポンペイウスが元老院と結託してカエサルに反旗を翻したのである。
このときガリア(現:フランス)に遠征に出ていたカエサルはこれに対し電光石火のようにローマに舞い戻った。
ローマに攻め込んだら大罪。
こんな法律が存在した時代、カエサルは勝てばすべて良いという考えでポンペイウスと戦うことを決意したのである。
ローマの都との国境、ルビコン川を渡る際彼はこう言葉を残した
「賽は投げられた」と。
そしてローマに攻め込んだカエサルはそのまま勝利を手にすることとなる。
ポンペイウスはその戦争の中暗殺されてしまうが、その亡骸を見たカエサルは敵ながらひどく悲しんだという。
それはポンペイウスが遠征の際援軍を送ってくれた人であり、カエサルの一人娘の夫でもあったからである。

こうしてカエサルはローマにおいて独裁官となり、元老院から終身独裁官の称号を得て最高権力まで上り詰めた。
このとき、彼が建設を希望した物こそ、ローマの中心地「フォロ・ロマーナ」
当時のローマには帝国の中心地でありながら、ギリシアのアテネやエジプトのアレキサンドリアのような歴史や美しさをもった場所がなかったのである。
このため、市民の集会場を再建し、総大理石で作られた荘厳な建物を建設しようとしたのであった。
しかし、この計画は途中で鎮座してしまう。
それは帝国にとっての大事件
「ユリウス・カエサルの暗殺」である。
あるときカエサルは元老院から王の称号が与えられるということで議場へ赴いた。
その瞬間、彼は暗殺者に囲まれ次々と刺されたのである。
必死に抵抗したカエサルであったがある一人の男に刺されたことにより一言告げ、息を引き取る。
「ブルートゥス、お前もか。」
カエサルにとってブルートゥスは生涯で最も愛した女性の前夫との子供であった。
このため、カエサルはブルートゥスが小さい頃から愛し、父親のようにふるまったのである。
愛した子供の剣がその身に刺さった瞬間、カエサルは覚悟を決めたのであった。

こうして、カエサルの国葬が執り行われる際に、彼の遺言状が市民の前で読み上げられた。
ローマ市民へお金を贈る。そしてカエサル庭園を市民へ寄贈すると。
民衆は息をのみ、亡くした者があまりにも大切な人だったと感じ、暗殺者たちへの憎しみをこめ暴徒化したのである。
しかし、このときこの遺言状を読んだ男だけが違う部分で息をのんだのである。
この時、遺言状を読み上げていた人物こそ次の権力者とされていたアントニウスであった。
ローマの時代において次の権力者がなくなった人の法定相続人になるのが通常であった。
が、カエサルはこの法定相続人を病弱な19歳オクタヴィアヌスを指名したのである。
全く無名の人物を上げたカエサルの真意がわからなかったのである。

こうしてカエサル亡き後、第2次三頭政治がおこなわれることとなった。
アントニウス、レピドゥス、そして無名のオクタヴィアヌスである。
実はカエサルは次の権力者に誰がふさわしいかを知っていた。
それこそオクタヴィアヌスであった。
彼はこの15年後、エジプトと組んだアントニウスを撃破し、初代皇帝へと変化していく。
名前もアウグストゥスと改名されローマのさらなる繁栄を築きあげていくのであった。
共和制が帝国制へと移り変わった瞬間である。
彼はその後、カエサルのフォロ・ロマーナの建築を再開させる。
そして、最初の計画にはなかったカエサルの神殿をフォロ・ロマーナの中に作り上げた。
完成した時にはまさしく帝国ローマの力を見せつけるような壮大にして威圧感のある建物群となったのである。

その後、ローマは皇帝の政策により様々な建物が建てられた。
それには皇帝の権力を見せつけるためと同時にもう一つ重要な政策であった。
その政策こそ、市民への娯楽の提供である。
帝政時代のローマ社会を表した言葉として「パンとサーカス」がある。
市民の人気とりのために皇帝は人々にパンを与え、娯楽を提供したのであった。
これは自分の権力を失わないですむほかに、帝国へ逆らうという意志を持たせない戦略。
この戦略は帝国全土で実施され、ローマ帝国がこれほど巨大で、長い間繁栄し続けた理由でもあった。
この娯楽施設として建てられたものこそ「コロッセオ」である。
コロッセオは闘技会や演劇を行うことを目的とされ、巨大都市ローマの市民を入れるため円形で収容人数は5万人もの人を収容できる建造物が建てられた。
このコロッセオで一番人気を集めていたのは剣闘士同士が戦ったり、猛獣と戦う闘技会であった。
彼らには敗北の瞬間、死が待っており、その死んでゆく姿に人々は熱狂した。
コロッセオの完成時に行われた闘技会では剣闘士2000人、猛獣5000頭がなくなったとされる。
コロッセオはローマ帝国のいたるところで建てられたが4階もの大きさがあり現存しているものはここだけである。
今ではコロッセオはその闘技場の大きさだけを伝えている。

また、もう一つの娯楽として浴場があった。
カラカラ帝の代に建てられた浴場はローマ帝国最大を誇り、豪華な装飾によって飾られたのである。
人々は最初体育館で汗を流し、ぬるめの浴槽で汗を流す。
そしてサウナ効果がある熱浴室に移りたっぷりと汗をかいて垢を落としたのであった。
当時は男女混浴であり、みな裸で風呂に入っていたという。
この水を確保するために様々な水源から水道橋をかけローマへ水を届けたのであった。
すべては人々の憩いの場所を作るために。

このようにローマはかつてない繁栄を手にしていた。
五賢帝時代には最大版図を確立。
その広さ、北はイギリスから南はアフリカ、西はスペインから東はメソポタミアまで範囲を広げる。
そしてハドリアヌス帝が敵の侵入を防ぐために長城を建設。
アウレリアヌス帝がローマを城壁で囲む。
など、さまざまな建造物が建てられた。
しかし、ローマ帝国にも衰退の時代がやってきてしまう。
まず始まったのがティオクレティアヌス帝により帝国4分割である。
その首都をドイツのトーリアに置かれた。
しかし、すぐに統合され再びローマへと首都が戻るが、コンスタンティヌス帝の時にコンスタンティノープルへと遷都。
このときにキリスト教がローマ帝国で公認されるようになる。
こんな中、帝国には西ゴート民族が侵入してきた。
ゲルマン民族の大移動である。
こうして帝国を支え切れなくなったコンスタンティヌス帝の次の皇帝は帝国を東西に分裂。
東ローマ帝国はその後コンスタンティノープルを首都にビザンツ帝国と名前を変え1453年まで存続することとなるが、西ローマ帝国はその後わずか80年で滅んでしまう。

こうしてローマは一時期、繁栄を失うのであった。
しかし、コンスタンティヌス帝のキリスト教公認によりこの地にキリスト教が繁栄する。
特に、初代ローマ教皇ペテロの墓があるとされたヴァティカンはこの場所を聖地とし、信仰の対象となった。
中世以降はこの地は教皇領として誰もが侵略しない街へと変化し、ローマの遺跡は完全ではないが残されたのである。
教皇領となってからは今までの繁栄ぶりはなかったが、歴史の中心として依然影響力のある街となっていた。
ルネサンスの時も数々の芸術家に影響を与え、首都として君臨し続けた。
2600年もの間ここはまさに歴史の表舞台だったのである。
まさしく、奇跡の場所であった。


イタリアの首都ローマはローマ帝国の首都として世界で類を見ないほど繁栄したあしょとして、またキリスト教世界の中心地として、さらに建築・美術に多大な影響を与えた場所として1980年世界遺産に登録された。
26世紀にもわたる歴史はここに眠っているのである。




どうでしたでしょうか?
すごく長くなってしまいました。
これでも大分削ったのですが。。
それほどローマの歴史は深いです。
歴史の流れはほとんどローマにつながっているといってもいいかもしれません。

さて、雑学は次回で最終回です。
いままでたくさんの雑学を書いてきましたが、ひとつだけ触れていない部分があります。
次回はそれを書きたいと思います。