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 【[雑学]アフリカ・中近東

世界遺産雑学150--世界遺産の概念が生まれた遺跡--
2000.12.30
 
世界遺産雑学150

--世界遺産の概念が生まれた遺跡--

巨大な4体の彫刻
それはまさしく古代王国の最盛期の証
しかし、現代においてこの証が危機にさらされたのだ
この出来事こそが「世界遺産」が生まれたきっかけ


ヌビアの遺跡群  エジプト

エジプト南部。
そこはスーダンとの国境近く。
この場所にはナイル川の上流にあるナセル湖が横たわっている。
こんなナセル湖周辺に存在する遺跡こそヌビア遺跡である。
ここはエジプトのアブ・シンベルからフェラエまでのおよそ280kmにもわたる広大な範囲。
古代エジプト文明の最盛期にあたる新王国時代の最大の建造物がそこには眠る。
すべてはファラオの力を見せつけるために。
こうした古代エジプトの宝が現代において水没する危機が待っていた
しかしユネスコ指導のもとすべては移築される
これこそが世界遺産のきっかけ。


ヌビア地方に様々な遺跡が建てられたのは紀元前13世紀ごろ。
古代エジプトの新王国時代の隆盛期ラムセス2世の時代である。
ラムセス2世は古代エジプトの中でも最も権力を持ちもっとも君臨し続けた人。
その証拠に彼の子供はゆうに200人を超える。
お妃の数も相当なもので中には自分の子供を再び妃にしたぐらいである。
それほど権力をもったラムセス2世が建設した物
「アブ・シンベル大神殿」である。
しかし、ひとつ疑問に思うことがある。
建てた場所である。
このスーダン国境というのはエジプトの中でも辺境の地。
首都テーベからあまりにも離れているのである。
それには一つの理由があった。
交易の中心地であったのである。
ヌビア地方は元来アフリカ内陸とエジプト北部と結ぶ中心地であった。
金・象牙・石・木材などがこの地を経由しその徴収するお金で街は潤ったのである。
もちろんこの徴収したお金は当時のファラオにすべて転がりこんだ。
ラムセス2世は莫大なお金を手にしたのである。
このため、この建設に使う資材、お金をすべてヌビア地方では思うままに仕えたためである。

こうしてアブ・シンベル大神殿は建てられた。
しかし、建設場所に問題があった。
ヌビア地方に平地が少ないところであったためだ。
が、王はそんな事をものともしなかった。
平地がないなら作ればよいとの概念で岩山を削り、巨大な岩窟の神殿を建設したのであった。
作られたのは正面に建つ巨大な4体の像。
すべてはラムセス2世の姿。
それぞれの高さは20mにも上り、ラムセス2世の権力を見せつける素晴らしいものとなったのである。
ラムセス2世の4体の彫刻の下には自分たちの王妃や王子、王女などが刻まれた。
特にラムセス2世の足元には最も愛した第一王妃ネフェルタリが掘りこまれているのである。
ちなみにネフェルタリとは元ヒッタイト王国の皇女。
それほどまでにラムセス2世の権力は絶大であったのであった。
神殿の内部には様々な部屋が作られ、特に最も奥に設置されている4体の像が残されている。
首都テーベの神「アメン・ラー神」
宇宙創造の神「プタハ神」
太陽の神「ラー・ホルアクティ神」
そして最後の一人は神格化された「ラムセス2世」である。
特にすごいのはその演出。
この4つの像は正面から一直線上の最奥に作られ、春分・秋分の年2回だけ4体の像に太陽の光が降り注ぐようになっている。
それはまさしく神々がこの世に姿を現し、永遠の力を手にしているように見えるのである。
こうした演出により人々はラムセス2世を神として崇めたのであった。

このほかにもヌビア地方には様々な遺跡が残る。
その中でも最も長い時にわたり愛された場所がある。
「フェラエのイシス神殿」
紀元前4世紀ごろプトレマイオス朝エジプトの時代に建てられた建造物である。
さまざまな彫刻、太い列柱
そこはまるで神々の集う神秘の大神殿の様相で建てられたのである。
このイシス神殿とは古代エジプトの神オシリスの妹で妻でもあるイシスに捧げられた神殿。
夫のオシリスは弟に殺され、ばらばらにされたのをつなぎ合わせて冥界の神へと復活させたことで有名な女神である。
ナイルの真珠と呼ばれたフェラエ島に建てられた神殿はその後さまざまな権力者に愛された場所となった。
それはローマ皇帝である。
ローマ帝国はエジプトを支配下に入れてからはトラヤヌス帝、ハドリアヌス帝、テオドシウス1世と数々の皇帝たちはイシス神殿に増築を施していった。
それは過去のものを壊すのではなく、周りに付け加えるだけのもの。
このため新王国時代、プトレマイオス朝、古代ローマ、ギリシアなど様々な建築様式が混在しエジプトの歴史を如実に示しているのである。


こうしたヌビア地方に残る古代エジプトの栄光と権力の証が現代の世の中で危機にさらされてしまう出来事がおこってしまった。
1960年エジプトの「アスワン・ハイ・ダム」の建設である。
アスワン・ハイ・ダムが完成してしまうとヌビア地方に残る遺跡すべてが水没してしまうという事態に発展。
もちろん世界は大反対をしたのである。
しかし、エジプトにはどうしてもアスワン・ハイ・ダムを完成させなければならない理由があった。
それこそ、古代エジプト文明を支えたナイル川の氾濫である。
ナイル川は年に一度大氾濫を起こし、肥沃な土壌を運んでエジプト文明を繁栄させたのであった。
が、それは現代の世の中にとって非常に困ったこと。
一年に必ず氾濫することは畑を作っても流され、水路を作っても流され安定した作物の保証がなかったのである。
また、ナイル川の氾濫によりあらゆる水害が発生しエジプトの経済に多大なる影響をもたらしていたのであった。
このため、エジプトの将来を考えると氾濫の起こらないナイル川にしなければならなかったのである。
それこそ、川に流れる水の量を調節するダムの建設が必須。
こうしてエジプトはアスワン・ハイ・ダムの建設を開始したのであった。

これに焦ったのがユネスコである。
ユネスコは文化・教育・科学を保護することを目的として作られた国際機関。
エジプトの文化が失われることを見過ごすことなんてできなかったのである。
ヌビア遺跡救済プロジェクトをただちに開始したのであった。
こうしてユネスコ指導の元、世界各国に協力を依頼。
この依頼により世界50カ国の支援を得てヌビア遺跡の救済を行ったのである。
1962年の出来事であった。

アブ・シンベル大神殿は元の位置のさらに上にある64m先の岩山に移築を開始した。
移築方法として採用されたのがブロック法。
遺跡を細かくブロック状に分解し、それを寸分たがわず組み直すというもの。
すべては手作業で行われ、ハンマーによって一つ一つ分解していったのである。
その数1万6千個。
各ブロックはミリ単位の違いも許されずに組み上げられていった。
こうして移築完了した時には5年の歳月を有していた。
しかし、アスワン・ハイ・ダムの完成よりも早かったため水没は免れたのである。
もちろん、古代の演出もそのまま移築された。
現在でも春分と秋分の日に4体の像は太陽の神々しい光を浴びるのである。

フェラエ島のイシス神殿もまた移築された一つ。
こちらはアスワン・ハイ・ダムの前のアスワン・ダム完成より年に数か月水没するという事態を迎えていた。
アスワン・ハイ・ダムの建設により完全に水没するために移築を開始したのである。
最初に考えたのは移築場所であった。
イシス神殿は島の中にあったため移築場所も島でなければならなかった。
こうしてフェラエ島と同じような地形を持つアギルキア島を移築場所と決めたのである。
まずアギルキア島はフェラエ島と同じ環境にするべくダイナマイトによって平地を作り上げていった。
その岩の量450t。
かなりの手間と苦労が惜しげもなくつぎ込まれていった。
それと同時にイシス神殿もブロックに分けられていったのであった。
しかし、一年に数か月水没していたイシス神殿はとりわけもろくブロックをさらに細かくしていくしかなかったのである。
こうしておよそ4万7000個ものブロックに解体したのであった。
これもまた寸分たがわずアギルキア島へ組み上げていったのである。
移築期間は2年半。
アブ・シンベル大神殿の移築の経験から大幅な短縮となった。
現在アギルキア島はフェラエ島と名前を変え、古代ローマの遺跡を過去のまま現在の世の中へ姿を見せているのである。
また、それ以外のヌビアに残る遺跡も同様に移築されていった。
中には40km移動した物もあれば、ブロックにできない状態であったため800tをそのまま台車に乗せて移動した物まで。
すべては古代の至宝の遺跡を守るため。
投じられた金額は151億2000万円にものぼった。

このヌビア遺跡の移築によって世界に残る至宝の遺跡や自然を保護しようとする概念がユネスコの中で生まれた。
その概念こそ「世界遺産」
世界に残る様々な遺跡・自然をどんなことがあろうとも守っていこうという概念である。
こうしてユネスコは1972年のユネスコ総会にて「世界の文化遺産及び自然遺産の保護に関する条約」を発案、採択された。
この条約を批准した国から保護のためのお金を世界遺産基金として様々な危機をもった遺跡につぎ込むというものである。
この条約の採択により世界遺産委員会が設立。
そして1978年最初の10件の世界遺産が選ばれた。
現在までに851か所もの遺跡・自然が世界遺産に登録された。
それはまさしく世界で後世の世の中まで守らなければいけないものである。

しかし、世界遺産の概念が出来上がった後でもユネスコが守れなかった物も存在した。
ほとんどは戦争によって。
とくにアフガニスタンのバーミヤン遺跡はイスラム教の偶像禁止の概念によりタリバンに破壊された。
ユネスコは破壊された後、緊急に世界遺産として保護し現在修復中である。
また、今年2007年初めての世界遺産抹消を経験した。
アラビア・オリックスの保護区。
国としてもユネスコとしてもこの自然を守ることができなかったのである。


ナイル川上流・ヌビア地方に残る遺跡群は古代エジプトの繁栄を伝える遺跡として、またこの至宝を水没から移築しその姿を地球上に残すという世界遺産の概念が生まれた場所として1979年世界遺産に登録された。
世界遺産・世界で守らなければならないものの始まりはすべてこの場所から。



「世界遺産」
それは「世界の文化遺産及び自然遺産の保護に関する条約」のこと
世界遺産とは世界の中で最も保護しなければならない場所という概念です。
現在のアジアにおいて世界遺産とはすばらしい場所という概念が皆さまの中にあるようです。
しかし、世界遺産の中には素晴らしい場所でない場所もあります。
それは歴史があって保護するものであるわけですから景観が素晴らしくないものもたくさんあるのです。
このため、いろんな人の日記の中での見た目で「さすがは世界遺産」とか「何が世界遺産」という感想があるのがおかしいのです。
世界遺産とは外観もそうですが最も大事なのは内面。
保護されるほどの歴史がその中に詰まっているためです。
ぜひ内面を知っていただきたいですね。
また、今の中国の世界遺産登録に目を向けると観光地化したいから世界遺産にしたいという概念があるようです。
ユネスコがこの概念を相当困っているようですが。
世界遺産に登録される。
それはものすごい規制が待っていることを示しています。
守るためにはたくさんの規制がないといけません。
今年登録された石見銀山もそのギャップに困っている場所の一つ。
観光客は多くなるのですが、石見銀山を守るために駐車場は作れない・お店も作れない。
人々はただ忙しくなるだけ。
すべての利益は保護に回されてしまうからです。
ぜひ世界遺産という概念を正確に知って世界遺産に登録してもらいたいものです。
世界遺産に登録とは人々の利益にならず、規制・保護に厳しくなるだけなのですから。







皆様、ご静聴ありがとうございます。
とうとう世界遺産雑学150で最終回を迎えることができました。
1年間にもわたる長い期間でしたがなんとか続けることができました。
これも皆様が読んでいただいたおかげです。
この最後の雑学150は数か月前から決めていた場所でした。
世界遺産の始まりを書かなければならないと。
よくまあこれほど長きに渡り書いたと思います。
よく、これ雑学じゃないよねと言われることがありますが、もともと最初は雑学のつもりで書いていました。
このため雑学1をよんでいただくとまさしく雑学でした。
しかし、書き続けるうちに書きたい魅力がたくさんあってそれを抑えるのに必死になった感じもあります。
それだけ世界遺産って内面が素晴らしいのですよ。
ぜひぜひ世界遺産は内面、その概念を分かっていただければなと思います。

今まで長きにわたり読んでいただいてありがとうございました。

ひさほゆう