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 【[雑学]ヨーロッパ

世界遺産雑学75--特殊な世界遺産Vol.11--
2000.12.30
 
世界遺産雑学75

特殊な世界遺産Vol.11
「道」

--聖地へ導く道--

キリスト教聖地サンティアゴ・デ・コンポステーラ
中世の人々は誰もがここに行く事を望んだ
そして、巡礼者の数は膨大なものとなった。
彼らが歩いた場所には道が出来たのである。


・サンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路  スペイン
・フランスのサンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路  フランス


フランス・スペインにまたがる世界遺産
サンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路
文字通りの聖地に赴くための道である。
フランスには4本の道がある。
それは、ヨーロッパ各地からの巡礼者を受け入れるために4本にひろがった。
そして、スペインを経て道は1本に束ねられる。
そこから800kmにもわたる長い道が聖地へと繋がっているのである。

キリスト教第三の聖地
サンティアゴ・デ・コンポステーラはキリスト教12使徒の聖ヤコブの遺骨が見つかった場所
中世、キリスト教はここを聖地とし巡礼を推奨する。
そして民衆にある教えを説いた
「聖ヤコブの霊廟に訪れればすべての罪は許され、天国への門が開かれる」と。
また、スペインの人々も経済的理由からこの巡礼を歓迎した。
このため、人々は贖罪を願い巡礼を行なったのである。

巡礼が最盛期を迎えたのが11~12世紀。
1999年でも話題となったが、聖書では千年期に世界の終末が訪れると予言している。
このため、10世紀末にヨーロッパの民衆は大混乱を起こした。
しかし、西暦1000年が無事に終了した事によって、民衆に安堵感がもたらされる。
また農業も安定し生活も充実した時代となったのである。
さらにサンティアゴ・デ・コンポステーラの周辺の治安も安定する。
それは、イスラム教徒に占領されていたこの街をレコンキスタにより解放されたからであった。
さまざまな条件が重なり、巡礼は加速する。
12世紀には年間50万人もの巡礼者がサンティアゴ・デ・コンポステーラを訪れたのである。


中世から現在まで巡礼を行なう際に必ず行なうことがある。
まず始めに巡礼の登録、身分証明書、通行手形を手配すること。
巡礼者の証、「帆立の貝殻」を身に着けること。
そして、遺言状を書く事。
中世の世の中は現代と違って治安がとても悪かった。
巡礼者を標的とした追い剥ぎ、盗賊などが往来。
違法な両替所や渡し舟の法外な値段等の巡礼者たちへの厳しい現実が待っていた。
また、一番危険だったのが狼。
ピレネー山脈を越える際には回りに家などはなく、狼に襲われる者が続出したのである。
命を落とすものも少なくなかった。
しかし、人々はこんな危険があるにもかかわらず聖地へ赴いた。
彼らは天国へ行く事を切実に望んだのである。


フランスの巡礼路は4本
「トゥールの道」:オルレアンを基点に南下するルート、途中ボルドーを通る
「リモージュの道」:世界遺産ヴェズレーを基点とする。陶器の町リモージュを通る
「ル・ピュイの道」:黒い聖母を祀るル・ピュイを基点とするルート。
「トゥールーズの道」:世界遺産アルルから始まるルート。プロヴァンス地方から西に向かう。
この内上3つの道がフランスのオスタバで合流する。
その後、ピレネー山脈を越える。
最後の道は独自にピレネーを越え、スペイン・プエンテ・ラ・レイナですべての道が合流するのである。
ここからスペインの巡礼路が始まる。
人々はピレネー山脈を越えてから4週間かけて800kmの道を歩いたのである。



サンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路はキリスト教の信仰の証として、そして巡礼に多大な影響を与えたとしてスペインが1993年・フランスが1998年に世界遺産に登録された。
罪を許されたい一心に危険な道を歩いた結果である。






今回は道です!!
道といっても、そこにはキリスト教の信仰心が刻まれています。
現在でも歩く人はとても多いです。
フランスからは2ヶ月ぐらいかかってしまうそうです。
彼らの目印は帆立の貝殻。
その目印だけで人々は協力してくれるのです。