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 【[雑学]ヨーロッパ

世界遺産雑学136--激動の歴史を見続けた黄金都市--
2000.12.30
 
世界遺産雑学136

--激動の歴史を見続けた黄金都市--

かつては数々の戦乱に巻き込まれた場所
そんな場所でも黄金と呼ばれるほど繁栄した時期があった
残っているものは繁栄の証
中世の街並みが現在に残っている


プラハの歴史地区   チェコ

チェコ共和国、首都プラハ
この街にはモルダウ川が街の中心を流れ、東岸をプラハの街並、西岸をプラハ城や公共施設などで分けられている。
現在でも高層建築は一つも建設されず、家の屋根もレンガ色。
すべては中世と全く同じ生活をしているのである。
時が止められたと錯覚するほど過去の風景を残している。
こんな街はかつて神聖ローマ帝国の首都として栄えた証がある。
「黄金のプラハ」と呼ばれ当時のさまざまな栄光をここは手にしたのであった。
しかし、その後激動の歴史を歩むのである。


モルダウ川の両岸に街が建設されたのは880年頃のこと。
この地にはボヘミア王国が形成され首都としてプラハが繁栄していくことになる。
しかし13世紀になるとボヘミア王国は滅亡。
荒廃をしてしまうのである。
再び繁栄をするのは14世紀後半。
この地を支配していた領主・カレル1世が神聖ローマ帝国皇帝に任命されたことにはじまる。
神聖ローマ帝国は7つの強大な領主の多数決によって皇帝を任命するのである。
7つの領主から支持を得たカレル1世は皇帝名カール4世と名前を変え、プラハを神聖ローマ帝国の首都としたのである。
カレル1世はプラハをローマやコンスタンティノープルに匹敵するヨーロッパ最大の都市へと変貌を望んだ。

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こうしてヨーロッパ中から様々な建築家、芸術家が集められプラハはかつてないほどの繁栄を見たのである。
また、神学も積極的に推奨。
東ヨーロッパ初の大学の建設し、学生を集めた。
また、数多くのキリスト教の本を集め蔵書を行った。
こうして集まった本は800年間で13万冊。
すべては現在もストラホフ修道院に残されているのである。

プラハの街はこれにより瞬く間に変化していった。
市庁舎前には天動説を基に作られた天文時計。

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その下には四季を現すカレンダーの天盤が設置されている。
また、この天文時計はからくり機能が備わっており毎時間に十二使徒が上の窓から姿を現すように設計されているのである。
またモルダウ川には石橋が掛けられカレル橋と名付けられた。
カレル橋は頑丈に作られ、あまたの水害にも耐えるように設計されたのである。
さらに橋の上には聖人の像が置かれるようになる。
それは全部で三十体。
彼らは今でもカレル橋を歩く人たちを見守っているのである。
しかし、こんな黄金のプラハに置いて一つ完成しないものがあった。
大聖堂である。
聖ヴィート大聖堂はカレル1世がプラハ城内に建設を指示。
しかし、完成までに600年という歳月がかかってしまうのである。
これ理由こそ、プラハの暗黒の歴史である。

最初の混乱は宗教戦争である。
先ほど、プラハには神学が発展したと書いたが、実は発展しすぎてしまうのである。
神学を学んで聖書とカトリックの教えの矛盾点に気づいてしまうものが出てきてしまった。
その人物こそ「神学者ヤン・フス」
彼は宗教改革を起こすルターよりも100年前にその事実に気づき、ローマ教皇庁に対して抗議を起こしたのである。
このため、ローマ教皇が異端と認識。
ヤン・フスは処刑されてしまうのである。
これに怒ったのがフスの弟子。
彼らはカトリックへと戦争を勃発させるのである。
このためプラハには異端撲滅のための十字軍を派遣するが、フス派によって敗北。
その後、ハプスブルグ家がボヘミアを統治することによってフス派は軍門に下り、フス戦争は終結を見るのである。

しかし、待っていたものはハプスブルグ家による支配である。
ハプスブルグ家によっていったんはプラハで錬金術や芸術などを推奨され発展を見せるが、息をひそめていたプロテスタントがカトリックの国王代理を城の窓から突然落としてしまう事件が発生。
こうしてプラハでは再びカトリック対プロテスタントの30年戦争が勃発してしまうのである。
最終的にプロテスタントは敗北。
カトリックがチェコを占領し、国内はドイツ・オーストリア化がすすめられてしまう。
チェコ語を禁止した時代でもあった。

そして、この暗黒時代をチェコの人は150年も耐えに耐える。
そこでやっとチェコの人々にチャンスがやってきた。
フランス革命とナポレオンの登場である。
フランス革命は自分たちの自由と文化を勝ち取る戦いであった。
さらにその後のナポレオンのオーストリア進行によりハプスブルグ家の弱体化が起こるのである。
今ならフランス革命のように自分たちも革命が起こるのではないかと市民が蜂起。
チェコ語の復帰と文化の再生を願ったのである。

こうして、第一次世界大戦後ハプスブルグ家解体に伴い、チェコは独立。
チェコスロバキア共和国が成立するのであった。
しかし、彼らの努力が実を結んだかにみえたが、さらに支配される時代に陥ってしまう。
ナチスドイツの侵攻である。
第二次世界大戦では大国の中間に位置するチェコはドイツに占拠されることになってしまうのであった。
その後、第二次世界大戦が終結し平和が訪れるかの様に思えたが、その後ソビエトがチェコに進行してくる。
彼らソビエトは社会主義を強要。
これにより、チェコスロバキア社会主義共和国が誕生してしまうのであった。

しかし、チェコの人たちはあきらめなかった。
民主化を求める運動が始まるのである。
そうして勃発した事件
「プラハの春」である。
民主化を求めた市民を恐れたソビエトと東欧5カ国が軍事介入。
再び民主化の夢は頓挫されてしまう。
が、チェコはさらに民主化を願う。
そうして、国民の大部分が参加した反政府デモにより共産党が崩壊。
このビロード革命によりチェコは民主化を得たのである。
1989年になってやっとのことであった。

こんな激動の歴史があったからこそ、プラハの大聖堂はなかなか完成しなかった。
しかし、最初のチェコスロバキア共和国誕生の際に大聖堂は完成を見る。
それはルネサンスやバロックなど様々な年代の様式が取り入れているがプラハの街を一望できる所に建てられたのであった。
特に圧巻なのがステンドグラス。
アールヌーヴォー様式でたてられたムハ作成のステンドグラスは今までにな鮮やかで表情が読み取れる。
それはまさしく、光る絵画であった。

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現在プラハでは黄金のプラハをそのまま保管する街へと変貌していったのである。


動乱の歴史を歩んだプラハは中央ヨーロッパのキリスト教発展の拠点であり、街全体の景観も美しく、その都市建築はヨーロッパに与えた影響が大きいとして1992年世界遺産に登録された。
自由を勝ち取った、たった3年後のことである。



すいません、チェコの歴史を語る割合が多くなってしまいました。。
それだけ、この国は複雑な歴史があったのです。
でも、ぜひ行ってください。
感動した場所のトップ3に入るかも。
特に夜景。
びっくりするほどきれいです。
時が止まった感覚。
すごく味わえる所ですよ。