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 【[雑学]アジア

世界遺産雑学59--農民出身の皇帝が築いたもの--
2000.12.30
 
世界遺産雑学59

--農民出身の皇帝が築いたもの--

王家の谷
エジプトの王が埋葬された場所
しかし、東洋にも同じような場所があるのはご存知か。
そこには中国歴代の皇帝が眠るのである。

明、清代の皇帝陵墓  中国

明の開祖、朱元璋。
実はこの朱元璋は中国の皇帝として初めて意外な皇帝。
それも2つもある。
一つ目は驚くべき事に初の最下層出身から皇帝まで上り詰めた人。
前漢の高祖は農民出身であるが地方の有力者であった。
その点、朱元璋は貧しい家に生まれ、両親が無くなり乞食になり各地を放浪した経歴を持つ。
歴史上、もっとも出世した人である。
元王朝末期に紅巾の乱に参加して以来、能力が認められ有力者の娘と結婚しその兵力を引き継いだのである。
そして南京を落とし、兵力を北上。
北京やカラコルムを征服し元を北に追いやったのである。
これがもう一つの意外な面。
中国史上初めて南から北に征服した皇帝である。
こうして、朱元璋は明王朝を立ち上げ自らを光武帝と呼ぶようになる。

このように成立した明王朝。
そして、明の皇帝のお墓が北京に作られるようになる。
「明の十三陵」である。
ただ、「明孝陵」と「明顕陵」の二つの皇帝陵は例外として中国の南部にある。
それは明朝の王位継承の大きくかかわっているのである。

もともと朱元璋は南部・南京に首都を置いた。
そして、南京の町の中にお墓を建設させたのである。
これが、「明孝陵」である。
お墓はすべて壁に囲まれており、門から一直線に路が敷かれている。
その路の周りに12体の動物の石像が並ぶ
麒麟、駱駝、獅子、象、馬、神獣の6体が立像、座った像が対となり配置された。
その先は文官、武官などの石像が行く手を守っているのである。
この明孝陵は光武帝自ら定めたもので、その後の明・清の陵墓の規格となっていった。
このように、最初のお墓は南京に立てられた。
しかし、第二代皇帝の時にクーデターが起こる。
皇帝の叔父、燕王の反乱である。
クーデターに成功した燕王は二代皇帝を抹殺。
年号や時代までも抹殺したのである。
そして、自ら三代目皇帝「永楽帝」を名乗る。
永楽帝は都を北京に移し、そしてお墓も北京に作られる事となったのである。
それが明の十三陵。
明の歴代の皇帝はここに葬られた場所。
当時の栄華をすべてに集約し、宮殿や楼閣、地下宮殿などを配置したのである。

しかし、明の皇帝のお墓はもう一つある。
明顕陵である。
実は、ここに祭られている人は皇帝になっていない。
ではなぜ明の皇帝のお墓と呼ばれるようになったのか。
それは、皇帝のわがまま。
11代皇帝が亡くなり、明は次の皇帝を探していた。
皇帝には子供がいなかったのである。
そこで抜擢されたのが従兄弟。
当時14歳になったばかりの子供であった。
この皇帝は自分が突然皇帝になったため、父の後を継げなくなってしまった。
それならいっそうの事父を皇帝に祀り上げてしまえという思いがあった。
当然、反対意見が多かった。
このため、皇帝の父は皇帝でなければならないと宮廷内に言い続けたのである。
そして、12代皇帝の父親のお墓はすべて皇帝のお墓の規格に建て直された。
すべては14歳の皇帝のわがままであった。

皇帝のお墓の建設はその後の清の時代になっても続けられた。
現在、「清東陵」「清西陵」の2つが清時代に建てられたお墓。
ここにも清時代の栄華の証が残っているのである。

実は、建てられた場所には共通する事がある。
すべて風水によって場所が決められた事。
気の流れなどを読み、風光明媚な土地を選び抜いたのである。
それは明・清時代ともに使用された。


明・清代の皇帝陵墓はそれぞれの時代背景を伝えるとともに葬送儀礼に関する重大な史料で伝統的な建築文化を今に残している。
このため、2000年に世界遺産に登録、2003年、2004年に拡大登録された。




ここには皇帝の権力の粋を集めて立てられた建物だらけです。
しかも、ほとんど壊されずに残っているとか。
それもそのはず明・清・現在の中華民国としか時代は変わってないですから。
でも、日本で言うと室町時代の話。
中国って歴史の深さは尋常じゃありません。