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 【[雑学]中南米

世界遺産雑学102--世界の半分以上がここから生み出された--
2000.12.30
 
世界遺産雑学102

--世界の半分以上がここから生み出された--

標高4000m
富士山より高い場所が一気に人が訪れることとなる。
ここにはある物が発見された
「銀」


ポトシの市街/スクレの歴史都市  ボリビア

ボリビア共和国。
国土のほとんどがアンデス山脈に覆われ、標高2000m以上の高地。
年間平均気温7℃しかない。
この人が住みにくい場所にかつて繁栄した都市があった。
ポトシとスクレである。
とくにポトシに関しては標高4000m以上の地にある。
空気も薄く、あたたかい時が少ないこの場所に20万人規模の人が住むこととなる。
それこそ、銀の発見によって。

新大陸にはエル・ドラド(黄金郷)がある。
大航海時代、南米でこのような噂が広がった。
そして冒険家達はこの黄金を求めた各地をさまよい続けた。
ベネズエラでエル・ドラドを捜した人はアンヘラの滝を発見するなど南米全体に及ぶ。(雑学100参照)
こうしてボリビアを探検していた冒険家はある先住民が銀を発見したという噂を耳にする。
彼らは先住民が見つけたとされる山に赴いた。
そこはアンデス山脈の高地。
ポトシ。
ここに銀があることが確認されるとここに大きな街を築く。
瞬く間に銀の採掘場として街は発展していく。

その後、ポトシには大量の労働力が運ばれてくる。
先住民族と黒人奴隷。
彼らは換気施設のない坑道を強制的に掘りされた。
それは地獄以上の過酷さ。
蒸し暑い程の坑道、煙が充満するかのような塵と埃。
あまりにも過酷なため、コカの葉(精製するとコカイン)を口に含み、さらに強いお酒を体に入れることによって辛さを紛らわせたのであった。
しかし、このような生活を続けるため死亡するものが後をたたなかった。
このため、どんどんかわりの労働力を仕入れたのである。

銀が取れるようになって支配者達は巨万の富を得る。
支配者とはスペイン人。
当時の南米はすべてスペインの植民地だったためだ。
こうして採掘された銀はどんどん本国に輸送された。
最終的に銀は世界の産出量の半分をまかなうまでになったのである。
彼らは有り余る富で自分の住む場所をどんどん大きな邸宅に変えていった。
されに祈りの場の聖堂も豪華絢爛にしていくのである。

しかし、支配者にとってポトシにすむことには難点があった。
それは標高4000mの高地にあること。
そこで彼らはポトシに近く標高2000mの盆地スクレに移り住む。
ポトシに比べて格段にスクレの方が住みやすかったのである。
このため、スクレはボリビア一の繁栄をみせる。
とくに南米の中でも珍しい司教の座席がある聖堂、司法の最高機関王立大審問院、南米で6番目にあたる大学などが創設。
ここは植民地の中でも文化都市として発展していくのであった。
また、街の建設にも大きな規約を課した。
それは家をすべて白で覆うこと。
このためスクレは独特の綺麗な街へと変化していくのである。

こんな繁栄をみせるスクレであったが、ここが大きな激動の事件へと巻き込まれる。
それこそ「独立戦争」
コロンブスがアメリカ大陸に達したのち、アメリカ大陸のほとんどが植民地とされていた。
それがアメリカの独立をきっかけに大陸全土で独立の声が挙がる。
南米もその例外ではなかった。
実は南米初の独立戦争が起こった場所がスクレである。
植民地からの解放を求めた住民がこのスクレの広場から武装蜂起を始める。
中心人物がシモン・ボリーバル。
彼らはこの場所から、独立の栄誉を勝ち取ったのであった。
このため、シモン・ボリーバルに敬意を表し国名をボリビアと名付けたのであった。
その後、スクレはボリビアの首都なったが現在ではラ・パスに移された。
しかし当時の繁栄の象徴は今も残っているのである。


世界の半分の銀を産出したポトシとその銀で繁栄したスクレ。
スペインと先住民の文化が融合した建物が残り、それがその後の都市に影響を与えたとして1987年ポトシは世界遺産に、南アメリカの独立戦争発祥の地であり植民地時代の町並みを残すスクレは1991年世界遺産に登録された。
しかし、この場所には労働力として物扱いされた人たちがいることを忘れてはならない。



ポトシ銀山は聞いたことがあるのではないでしょうか?
たしか、中学・高校の歴史で習いました。
それだけ、ここは有名な銀山だったのです。
実は日本にも世界の1/3もの産出量を誇った銀山があります。
ちなみに今年世界遺産に登録予定です。