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2010.10.03

 観光・見所

【コラム】世界遺産ルアンパバーン 通の歩き方④ 町を変えた50年

フランス領インドシナが成立し、お隣のベトナムとカンボジアがフランスの植民地となったのは1887年でした(ラオスは1893年に編入)。パリでは、万国博覧会のために当時の技術の粋を駆使したエッフェル塔が着工され、綺羅星のごとく現れた印象派や後期印象派の画家たちが腕を競い、人々は大型百貨店で買い物を楽しむといった具合で、いわゆるベルエポックと呼ばれる豊かで華やかな時代の到来に浮かれていた時期でした。




この同じ年、ルアンプラバンが大惨事に見舞われました。所謂ホー族の襲撃によって町のほとんどが灰燼に帰したのです。寺院も相当な被害を受け、このときワット・ヴィスンの本堂が焼け落ちました。大規模かつ装飾に富む、どこにも類例の無い壮麗な木造の建物で、今残っていればワット・シェントーン寺を凌ぐ国宝級の本堂でした。まったく残念なことです。現在の本堂は1898年の再建で、レンガ造りながら屋根を支える木組みは堂々としたもの。仏壇の周りに納められている夥しい数の木造の仏像にも圧倒されます。その中に混じって、火災から焼け残ったと伝えられる旧本堂の柱の一部が唯一保管されていて、往時を偲ぶことが出来ます。ここに来るたびに、かつてルアンプラバンには木の文化が栄えていたんだなあとつくづく感じます。
町の再建にあたり、フランスは1900年台になってようやく本格的に力を注いだようです。そして1914年に始まる第一次世界大戦でヨーロッパが暗い時期に入ってもその勢いは止まらず、1925年までに王宮、裁判所、郵便電信局、病院、学校などが次々と建造され、植民地経営の体制が着々と整えられてゆきました。ちなみに現在の県庁舎は警察署、ワット・マイのそばの情報文化局は憲兵隊舎、半島の突端にある遺産保存事務所は税関でした。また植民地政府の高官たちもその庁舎に負けないくらいの規模で豪奢な邸宅を建てて威厳を示しました。これらには庁舎に比べてより自由な発想が取り入れられ、西洋建築に寺院の形式をミックスした大胆な試みもなされました。ダラーマーケットのそばにある子供文化センター図書館やワット・パパイの向かいのラオス‐フランス文化センターはその例です。その一方で、地元の人々は引き続き伝統的な高床式の家屋を建てていました。ヴィラシエンムアンやワット・マイの向かいの2件などはその例です。
1930年代になると、1階が店舗で2階が住居という長屋形式のショップハウスがヴェトナム人や中国人商人のためにいくつも建てられ、今のメイン通りの街並みができてゆきます。また、これと平行してラオス人富裕層のあいだではラオス‐西洋の折衷様式で邸宅を建てることが流行り、伝統的な間取りを踏襲しながら総レンガ造りにしてアーチ式の窓や戸口を設けたり、間取りを崩して玄関を中央に設け、T字型の平面を持つようになったもの等が登場しました。
こうして木と竹で構成された柔らかい伝統的な街並みに、レンガ造りや白壁で瓦屋根の硬い印象の建築が増えてルアンプラバンの建築が多様化し、また地区ごとに特徴が生じて街並みの中にリズムが加えられていったのです。ホー族の襲撃からわずか50年間の出来事でした。それからさらに半世紀が経ち、この街並みがUNESCOに評価されて世界遺産となったのは正に瓢箪から駒でした。そのおかげで町は観光地として脚光を浴び、海外からの開発投資によって急激に変容しつつあります。50年間の置き土産に始まった因果の連鎖はまだまだ続きそうです。

【テイスト・オブ・ラオス12号掲載】

文【かわぐち ゆうし】
2000年から2008年まで修復建築家としてルアンパバンの保存にたずさわる。