最近「いのちの食べ方」という映画をDVDで観ました。
ドキュメンタリー映画で台詞も一切ありません。内容は私達が普段食べている物がどのようにして出来上がっているのかということで、内容は野菜や穀物、家畜達が「商品」として出来上がるまでが映像になっています。生まれてから死ぬまで外に出ることの無い豚や、太る事を目的とした餌を与えられる鶏など不自然な方法で家畜達は育ってゆきます。
私はラオスの市場で鶏を一羽購入して恐る恐る自分で捌いた事があります。
その時に発見したのは胸肉がかなり小さい事。その時私は「ラオスの鶏は栄養が十分取れないから小さいのかな」と思いましたが、実際はそうではなく、スーパーなどで売られている鶏の胸肉が異常に大きい事に後で気づき、目が覚めたような気持ちになった事があります。
しかしこの映画は不思議と残酷という感情よりも、命をもらって生きているんだという気持ちを湧かせてくれます。観終わって私の心の中に残ったのは動物と人間とのバランスが先進国とラオスのような発展途上国では大きく異なるという感覚です。
日本では一部の「食肉のエリート」として育てられる家畜を除いては基本的に人間が圧倒的にパワーを握っており、そこに家畜たちの望む動物らしい自由はあたえられていません。ラオスは特に田舎に来て頂ければよく分かりますが、走り回る家畜には食肉とされる寸前までかなり自由が与えられています。
人間と動物の力関係が日本よりずっと水平に近いような気がします。そんな事を考えていると人間も動物も全体の生態系の中では大差ない、という自然の摂理が見えてくるのです。
ラオスには美味しいものがたくさん有ります、同時にそれがもとはどういう姿だったのか眼にするチャンスもあります。そんな時よりはじめて、一層食事を大切に美味しく食べようという気持ちが強くなるのかもしれません。
文/八木なおみ
ルアンパバーン郊外の町ノーンキャウでバンガローを経営後、日本へ帰国。
※本文はテイスト・オブ・ラオス 2009年7〜9月号 No16より転載
ドキュメンタリー映画で台詞も一切ありません。内容は私達が普段食べている物がどのようにして出来上がっているのかということで、内容は野菜や穀物、家畜達が「商品」として出来上がるまでが映像になっています。生まれてから死ぬまで外に出ることの無い豚や、太る事を目的とした餌を与えられる鶏など不自然な方法で家畜達は育ってゆきます。
私はラオスの市場で鶏を一羽購入して恐る恐る自分で捌いた事があります。
その時に発見したのは胸肉がかなり小さい事。その時私は「ラオスの鶏は栄養が十分取れないから小さいのかな」と思いましたが、実際はそうではなく、スーパーなどで売られている鶏の胸肉が異常に大きい事に後で気づき、目が覚めたような気持ちになった事があります。
しかしこの映画は不思議と残酷という感情よりも、命をもらって生きているんだという気持ちを湧かせてくれます。観終わって私の心の中に残ったのは動物と人間とのバランスが先進国とラオスのような発展途上国では大きく異なるという感覚です。
日本では一部の「食肉のエリート」として育てられる家畜を除いては基本的に人間が圧倒的にパワーを握っており、そこに家畜たちの望む動物らしい自由はあたえられていません。ラオスは特に田舎に来て頂ければよく分かりますが、走り回る家畜には食肉とされる寸前までかなり自由が与えられています。
人間と動物の力関係が日本よりずっと水平に近いような気がします。そんな事を考えていると人間も動物も全体の生態系の中では大差ない、という自然の摂理が見えてくるのです。
ラオスには美味しいものがたくさん有ります、同時にそれがもとはどういう姿だったのか眼にするチャンスもあります。そんな時よりはじめて、一層食事を大切に美味しく食べようという気持ちが強くなるのかもしれません。
文/八木なおみ
ルアンパバーン郊外の町ノーンキャウでバンガローを経営後、日本へ帰国。
※本文はテイスト・オブ・ラオス 2009年7〜9月号 No16より転載