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2010.12.17

 過去記事&コラム集

ラオスの日本人~阿部賢一さん


阿部賢一: 日本語教師、チャンパ日本語学校経営

なぜ日本語教師だったのか?という問いに、すぐさま「天職」と言ってのけた。そんな人は、そうなかなかいない。生活の全て、24時間教師態勢という阿部先生の情熱はどこから生まれたのだろうか?


話は大学時代に遡る。
在学中に一年ずつ休学してイギリスとオーストラリアに渡った。
そこで日本語教師というアルバイトにありつく。あくまでアルバイトといいながらも、生徒が授業を理解できず困ったという顔を見ていると胸が痛んだ。その時、手作りの人形を使って説明をした。
すると、その生徒が「解った!」という表情を見せた、その時の嬉しさ、それが忘れられない、という。
本当に好きなことをやっている人の理由は、いたって単純なものなのだ。
好き、か、嫌いか。だから苦労もついてくる。

大学を卒業し、日本語教師になろうとするも、日本では未経験者に就職機会が少ない現実が待っていた。海外で経験を積まなければならない。そんな時、ある日本語学校が教師を募集していた。赴任地はタイもしくはラオス。阿部先生は、迷わずラオスを選んだ、その理由は?「行ったことが無かったから」。日本ではロードレーサー(長距離二輪競技者)でもあったというが、単純にして、ぐいぐい突っ込んでいく、冒険肌の持ち主である。
そして、いよいよラオス生活が始まる。

来た当初はトゥクトゥク運転手ですら英語をほとんど話さなかったので、日常、英語での会話はほとんどできない。英語は日に日に忘れてしまうが、却ってラオス語を学習する機会はそこら中にある。そして、意思疎通が深まってくるとだんだんと楽しくなってくる。そんなこんなで、アッという間に3年間が過ぎていく。3年というのは教師の経験として申し分はない。ステップアップのため日本の大学院でさらに勉強をするか、他の国に行くか、いずれにせよ、一度日本に帰ることに決めたが、その前にラオスの寺院で出家することにした。
「やってみたかった」またも理由は単純な好奇心だった。

お堂内の大きな仏様が見守るお膝元が寝床になった。食事は一日一食。これまでしたことのなかったラオス語の読み書き、さらにはパリー語まで教え込まれる。そんな生活をしていると、次第に日本へ帰る気が失せてきた。こんなゆったりとした時間の流れるラオスからせせこましい日本に帰るべきか。「今考えると仏様のお告げだったのかも」。仏の眼下でチャンパ日本語学校創立者の堅い決意が誕生する。

そういった縁もあってか、170人いる生徒中の2割はお坊さんが占める。お坊さん用の特別授業料があるという。「当学校の校長先生(ラオス人)は近くのお寺の中心的な檀家さん(に相当する存在)なので、お坊さんには優遇しています」。学校は今年で8年目。阿部先生自身、教師は30歳から始めたので今年で教師歴12年目になった。それでも、経営が安定してきたなと思い始めたのは、ここ一・二年のこと。気負って立ち上げた学校も、すぐに資金難に陥った。来月の家賃をどう支払うか、自分の給料などもってのほかだった。NGOなどの支援を受ける選択肢もあったが、自分のやりたい方向の日本語教育ができなくなることを懸念して、自活の道を貫き通す。教師の募集にも苦労した。ラオスは知名度が低いので、ネットで募集しても皆さんが「どんな国なんだろう」と二の足を踏む。ラオスでは、日本語だけで私塾を経営するのはかなり厳しい状況。コンピューターや英語コースなどの併設の話もあったが、すべて断った。「経営者」としてではなく「日本語教師」としての矜持だった。当校の授業料は、ラオスで一番高く設定しているので、日本語教師の資格保持者しか採用していない。プロフェッショナルを目指すこと。

日本語の露出が少ないことにも嘆く。日本がトップドナーであるにも関わらず、街を見渡せば、中国語やハングルは目立つが、日本語はめっきり少ない。生徒に尋ねられても、答えに困窮してしまう。ラオスには現在、日本語学習者が700人に満たないが、今後はビエンチャンで1000人、全国で1500人に増やすことを目標としている。

●学校での苦労話について?
ラオスの外国語教育は、二昔前の日本の英語教育に近く、講義形式に慣れ会話形式になれていない。黒板に書いたものを書き写すことに集中して、会話に参加してこない。もっと会話に参加させるにはどうすればいいか?教師もスポーツインストラクターに近いので、頭で理解しても、口が回らない生徒に、それが慣れるまで練習させようとする。しかし、先に飽きてしまう子も多い。飽きさせないでやるのもテクニックだが、いやがる生徒も中にはいる。しかし、通常は、二ヶ月ほどで慣れてくる。また、完璧な訳を求めないと、生徒たちが気持ち悪そうな顔をする。訳をいかに正確なラオス語に持っていくか、日本語の表現をラオス語のどんな表現に直せばもっとも適合するか?それを追求してきたのがチャンパのオリジナリティーだと自負する。
また、ラオスには、良質の辞書もまだない状況。下手すると、日本語→英語→タイ語辞書というように2クッションを経る場合もでてくる。タイやベトナムのレベルに達しない理由にそんな裏事情もある。また、日本人教師でラオス語に堪能な人がいないこと。ラオス語と日本語が堪能だけれど日本語教育に精通している人がいないことも挙げられる。生徒に関して言えば、学生が来ない、遅刻することが多い。その理由が、雨が降ったから、オートバイを親が使ってしまったから、等。宿題をやってくる生徒も少なく、この苦労は10年前から変わっていないそうだ。

●今後の目標について―
ラオス人日本語教師を育て、ラオス人にあったオリジナルの日本語教科書を作ること、ラオス人が日本語に関連するビジネスで生活できるような日本語教育をしていくこと。雇用機会というのも大きく作用していく。「日本人がいることとは何か?ラオス社会に貢献できる日本語教育の現場作りが大切だ」と力強く語って下さった。

強い信念と教育理念に日本語伝道者の姿を重ねてしまう。ところで、剃髪姿が出家の名残なのか、どうか、聞きそびれてしまったのは残念。


※テイスト・オブ・ラオス16号 2009年6~9月発行より転載