この季節になると、どうしてもこの人の名前とプレーぶりが、鮮明によみがえってくる。その名は、スティーヴ・サックス(1769試合出場、1949安打、 54本塁打、550打点、444盗塁、1982年新人王)。カリフォルニアの州都サクラメント生まれのサックスが、ドジャースの一軍に上がってきたのは、 81年のワールドチャンピオンの年であった。
ドジャースタジアムの地下道に掲げてある写真に写るサックスの何と若いこと、21才である。82年、ドジャースは、黄金の内野カルテットといわれたスティーヴ・ガーヴィー一塁手、デイビー・ロープス二塁手、ロン・セイ三塁手、ビル・ラッセル遊撃手の中で、キャップテンも務めたロープスを放出し、サックスに二塁を任せるという賭けに出た。
サックスは、その期待に見事応え、ナショナルリーグ新人王を獲得し、レギュラーポジションを不動のものとした。そして、その人気と活躍ぶりは、ドジャースで88年まで続き、ファンの目ににしっかりと焼きつけられたのである。何といってもサックスの魅力は、全力疾走とそのさわやかさであった。しかしながら、俊足を活かすために、フライを打ち上げると罰金を取られたり、守備では二塁から一塁への送球すらままならないこともあり、一年間に30個のエラーを記録したり、サヨナラホームランを打って、三塁ベースコーチとハイタッチをしたのはいいものの、そのコーチの手にダメージを与えていた、そう骨折させていたのだ。いろいろな事があった、でも、このヤンチャ坊主を誰も憎めない。81年の登場以来、ファンはサックスの成長を温かく見守り、サックスもファンの期待に応え、一流選手へと育っていった。
ドジャースがワールドチャンピオンになったのは、88年が最後だが、その年のオフにドジャースは選択を迫られる。サックスと契約をするべきか、マイク・マーシャル外野手兼一塁手と契約するべきか?ドジャースが選んだのはマーシャルであり、そしてサックスはヤンキースへと出て行った。それ以降、ドジャースはトップバッターに苦しむのである。バトラー、ランドルフ、ドゥシールズ、ヤングといろいろな選手たちが頑張ったはずだが、サックスほどでは、正直なかった。賭けに負けたのか。ドジャースは20年間チャンピオンの座から遠のいている。
たしかに、プロらしくない無駄な動きは必要ない、と考える人もいることだろう。しかし、あの全力疾走がもう一度見てみたい。夏の太陽は眩しいが、選手の全力疾走はもっと眩しいのも事実である。
サックスふたたび!!
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