7月21日(木)
別れの朝
朝が来た。ラダックに来てから11日目。とうとうこの地を離れる日が来てしまった。昨日の送別会の余韻もなく、僧院の朝は淡々としている。尼僧は夜が明けるとお湯を持ってきてくれる。その後、熱いチャイも運ばれてくる。これはもう毎日の日課である。それが今日で途切れることには、大いなる感慨がある。
別れの朝
朝が来た。ラダックに来てから11日目。とうとうこの地を離れる日が来てしまった。昨日の送別会の余韻もなく、僧院の朝は淡々としている。尼僧は夜が明けるとお湯を持ってきてくれる。その後、熱いチャイも運ばれてくる。これはもう毎日の日課である。それが今日で途切れることには、大いなる感慨がある。
朝ごはんの支度が出来た、と呼ばれる。まだ6時過ぎだ。僧院の朝ごはんは8時からだが、私のために特別に用意してくれていた。しかも食堂には既にP師が座っていた。私に付き合うために来てくれていた。
ここの生活が非常に気に入ったことなどを伝えると、「いつでも来たければ来ればいい」と言ってくれる。そしてここで得た生活体験をこれからの生活に生かしたいと言うと「それは難しいこと。都市生活者に戻れば、すぐに元に戻ってしまう。それでもここの生活を忘れないようにすることは大切」と助言してくれた。
実際にデリーに行き、そして香港に行く頃には、この生活は思い出すものの、素食や自然な睡眠、安定した心など、全く顧みられなくなっていた。人間、そう簡単に変化できるものではなく、また簡単に安きに流れる物。恐ろしい。
出発の時間が来た。車で空港まで送ってくれる。皆が集まってきて、さよならを言う。しかし別れを惜しむ時間は殆どなく、車は動き出す。何人に手を振ることが出来ただろうか。いや、仏教は一期一会、会う時は会うし、別れるときは分かれる。