次に訪れたのが、トルファン市内から西に10㎞、交河城址であった。ここは2つの川の交わるところ、交通要衝の地であった。三蔵法師も訪れたと言う高昌国の隣。現存する城址は唐代以降のものだというが、見ると一面の廃墟。遮るものもまるで無し。今日はそれほど暑くはないと言われたが、それでも38度はある。何故なら夏のトルファンの昼間、38度を下回ることはないらしい。
しかもこの廃墟、説明文はどこにもない。行けども、行けども何もわからない廃墟を歩く。これは1つの修行ではないだろうか。いや、その昔三蔵法師はこのような砂漠を延々と歩いてインドへ行ったと言うことを我々に語っているのだろうか。
何事にも熱心なM先生を除き、皆かなりの疲労を覚え、出口へ向かう。まさに兵どもが夢のあと、といった感じだ。のどの渇きがすごい。この荒涼とした感じは如何にもシルクロードだが、直射日光と乾燥には耐えられない。砂漠を行くとは大変なことだ。
出口の所に博物館がある。中に入るとこの城址の由来その他が説明されており、初めて意味が分かる。我々は順番を間違えた様だ。先にここを見ておけば、あの暑さにも耐えられただろうか。いや、それはないだろう。
交河城とは我々には想像もできないし、現在見てもピンとは来ないが、陳舜臣氏によれば、「彫刻都市」なのだそうだ。交河というぐらいだから、2つの河に挟まれている。しかも20mの絶壁が城壁を作る必要性をなくしている。交河城は上から彫られた世界でも稀にみる都市なのである。上から彫られたと言えば、以前訪れたインドのエローラ石窟を思い出す。
実はトルファンには交河城址の他にもう一つ、高昌古城という場所がある。こちらの方が規模は大きいが、街は殆ど残っていない。理由として交河は日干し煉瓦を殆ど使っていないこと。農民は古い日干し煉瓦が肥料としてよいことを知っており、かなり掘り出して使ってしまったらしい。
尚高昌国は唐の時代、玄奘が立ち寄った場所。国王麴文泰は玄奘を気に入り、この国に留まるよう無理に要請。自ら給仕までしたらしい。天竺行きの使命を帯びる玄奘は4日間絶食し、対抗したという。結局1か月滞在し、国王はじめ300余人に講義をしたと言う。
当時高昌国は唐と突厥に挟まれて、苦しい立場にあった。王はこの難局打開の一つの方策として仏教の導入を進めたのかもしれない。結局麴文泰は玄奘が去って10年後には死を迎え、高昌国は唐に敗れて滅びる。唐は強国といえども、建国直後でまだ勢力が弱いと見ていたところ、それが誤りであったと言うことらしい。玄奘の「大唐西域記」には1か月も滞在したのに、高昌国のことは一言も触れられていないと言う。
交河城には高昌国滅亡後、唐の太宗により安西都護府が置かれ、唐は直接西域経営に乗り出した。玄奘はインドの帰路、この道を通らなかった。因みに後年マルコポーロも南道を通り、トルファンには立ち寄っていない。