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2012.01.29

 旅行記(インド)

ダージリンお茶散歩(11) マカイバリ茶園の歴史

マカイバリ茶園の歴史

クルセオンからの下り坂を降りると、ラジャ氏がお客さんを案内している所に遭遇。彼の家は工場から茶畑を登った所にあると言う。時間が空いたと言うことで、オフィスにお邪魔し、ホワイトティーを頂きながら、マカイバリの茶の歴史を聞く。




ラジャ氏のひいお爺さん(Girish Chandra Banerjee)はコルカタ近くに広大な土地を有する家に生まれたが、ロンドンで法律を勉強したいと言う希望が父親の怒りを買い、14歳で家を出て今のバングラデッシュに辿りつく。ヨーロッパの8か国語が話せた彼はその後地域とイギリスの間に立つなど頭角を現し、16歳でダージリンとクルセオンでポニーエクスプレスサービスというポニーを使った郵便システムを確立。20歳の時には既にこの地域で大金持ちになったと言う。


1840年にキャンベル博士が最初にクルセオンとダージリンに茶園を開いた。そこに目を付けたイギリス軍脱走大佐サムラー(Samler)がこの地に広大な土地を所有。ひいお爺さんはサムラー氏と仲良くしていたが、1858年にサムラー氏が亡くなるとその地を引き継ぐこととなる。しかし時代はイギリス植民地へ入り(1857年セポイの反乱)、危機感覚に優れた彼はこの土地の管理者として香港のジャーディン・スキャナー商会を前面に立てて、土地を所有し、イギリスの接収を免れた。

当時生産管理は行き届いてはいなかったが、商品はクルセオンまで籠を背負って運ばれ、そこから鉄道でコルカタへ。コルカタでジャーディン・スキャナーがオークションにかけ、イギリスなどへ輸出されていった。利益は半々だったと言う。それでも初代が亡くなった1898年には途轍もない財産を残したという。


1939年に第2次世界大戦が始まると、これを好機と見た祖父(2代目、Tara Pada)は父(3代目、Pasupati Nath)をマカイバリに送り込んで経営を行った(マネージャーはインド人と言うルールが存在)が、父は茶に興味がなく、もっぱらハンターであった。


余談だが、東京裁判の3人のジャッジはアメリカ、イギリス、そしてベンガル人だった。ベンガル人のみが天皇の戦争責任を否定し、天皇は責任を問われなかった。ベンガル人とはそういう人々だ。元々ベンガルはこの地や今のバングラディシュを含めた広大な土地を指していたが、イギリス人はベンガル人の優秀さを恐れて、土地を細かく分割した。


話を聞いている間もひっきりなしに来訪者があり、職員が指示を仰ぎに来る。その一つ一つに丁寧にそして的確に指示を与える。トラブルに対しては毅然とした態度で臨んでいる。経営者の顔がそこにある。ただ我々と話すときには、飛び切りの笑顔あり、ユーモアを交えたトークありで、とても楽しい。