ツアーから戻り、少し休んでから、再度出掛ける。今度は沢木耕太郎がその著書「国道1号線を北上せよ」で偶然辿りついたと述べている400年前にこの地で亡くなった日本人の墓を訪ねる。今や地球の歩き方にもその一つは掲載されているが、詳しい場所は書かれていない。沢木の文章と、簡単な地図を頼りに、歩き始める。
ホイアンの街中を抜ける。沢木が泊まったのはビンフンホテル。今では1泊80ドルもする高級ホテルになっている。そしてビンフン2,3と合計3つある。その3つを次々に通過して、郊外へ。唯一の情報は「広い道の右側の田んぼの中」、それだけで本当に行けるのだろうか。何故か行けるという確信を持つ。
沢木の文章の中には小学生が道案内したとある。きっと誰か道案内が出て来るだろう、そう思う。しかし予想外に郊外への道が発達しており、高級住宅あり、きれいなショップありで、どこまで行っても田んぼが無い。途中鶏肉を美味しそうに焼いている店があった。とても腹が減る。
そして20分も歩いただろうか。道の反対側で自転車を押すオジサンが、こちらに向かって手を振る。そして近づいてきて、「お墓」と一言。これで通じる。彼は着いて来いと言う仕草をして前を進む。1分も行かない内に、道端に表示が。「BANJIRO」と書かれている。
道脇を入るとそこには本当にお墓があった。亀型のこんもりしたお墓。1928年に文学博士、黒板勝美教授の監督のもと、墓の修復がなされた、との表示もある。「1665年この地に永眠した日本商人 蕃 二郎」との表示もまた見える。
このお墓は民家の中にあった。オジサンがお婆さんを呼んできて、線香の用意をした。お参りの準備だ。このお婆さんが毎日お墓を見守っているという。日本人としては感謝せざるを得ない。線香を受け取り、深く手を合わせる。お婆さんとは全く言葉が通じないが、お布施を渡し、墓とお婆さんに手を合わせれば、それでよい。
オジサンは自転車を押して広い道を進む。このホイアンには全部で日本人の墓が3つ残っているらしい。歩いて10分も掛からずに広い水田風景が広がった。そしてオジサンは指さした。その方向に目をやると、確かに田んぼの中に墓らしいものが見える。まるで浮島のようだ。オジサンの横を少年が自転車を走らせる。
「谷 弥次郎兵衛」、何とかそう読めた。1647年、ここに永眠した日本人商人。うっすらと読める。墓はやはり亀型。沖縄や中国南部に見られる囲みが見える。さっきの少年が掃除を始める。彼とオジサンはセットだった。掃除を済ませ、私に線香を渡す。長い時間、祈った。沢木も書いている。こんな環境の墓に入れるならいいな。確かに田んぼの真ん中に遮るものもなく見晴らしが良い。一つの理想の墓と言えるかもしれない。
オジサンと少年にチップを渡し、一人で墓を見ながら去る。細い田んぼの道では何故か突然別のオジサンが、道の修復を始めた。私が脇を通り過ぎると、手でチップをくれ、という仕草をする。如何にも取ってつけたようなその態度には腹が立ち、無視して去る。少し気分が壊れる。