茶業試験場と茶畑
リゼの茶業試験場は1924年に創設された。その前年に、オスマントルコが倒れ、ケマルアタチュルクにより、トルコ共和国が建国される。これは偶然の一致ではない。その数年前に、ゼリヒ・デリンという人がグルジアへお茶の研究に派遣されている。当時グルジアはお茶の産地、今でも高級な紅茶のイメージがある。既に帝国末期、それまでの国民飲料だったコーヒーは手に入らなくなっていた。何故ならコーヒーの産地はイエメンのモカ。既に帝国内ではなくなっており、コーヒーは高価な輸入品となっていた。
建国直後のトルコにお金はなく、国民飲料として期待されたのがチャイ。試験場は苦難の歴史を歩みながら、茶樹を植え、製茶を行い、1930年代にはそれなりの商品となっていた。ただ最終的に国民に普及したのは50-60年代とも言われている。このような説明をしてくれたのは、この試験場の開発責任者、アイファンさん。彼は日本びいきのトルコ人の中でも日本への親近感が強く、実に丁寧に話をしてくれた。
試験場は研究室などがあり、お茶の研究開発を行っていた。外は公園のようになっていて、一般人も気軽に入って来てチャイを飲んでいる。この山の上からリゼの街と黒海が一望できる。そしてその急な傾斜地に茶が植えられている。何故ここに茶畑を作ったのか、それはこの急こう配では、普通の作物は難しく、この付近の人々は貧しい生活を強いられていたからだという。政府も貧困対策で茶を植えた。だから、他の地域には茶畑が無いということだろう。
そして茶畑を案内していたアイファンさんが突然「これは何だか分かるか」と聞いてきた。茶畑の上に黒い幕が張られていた。まるで日本茶の被せ、のような日差しを遮る物だった。「そう、これはセンチャ畑だ」。え、トルコに煎茶畑。一体なぜなのだろうか。トルコではチャイが国民飲料となったが、皆砂糖を大量に入れる。政府は角砂糖の大きさを半分にして、国民の健康維持を図ったが、それほど効果が無いらしい。
そこで政府はアイファンさんを日本政府の支援を得て、鹿児島の知覧へ派遣し、日本の煎茶の製法を取得させた。機械も一部持ち帰り、5年前から研究に取り組み、今では飲めるセンチャが出来て来ている。勿論土壌の改良なども行っている。国を挙げての取り組みなのだ。ここにも日本との繋がりがあり、そのご縁で今日の私がある。