(2月24日) 広州へ行く②
翌朝はまだ眠かったが8時に起きる。I太太からホテル近くのレストランへ行くように言われていた。実はホテルにも朝食は付いていたが、ホテルの飯より外の飯の方がはるかに美味いと思い、その指示に従う。大きなビルの中に入るが、レストランの場所は分からない。エスカレーターで上がると他の店は見付かる。そこでもいいか、どうせ広州はどこでも美味い、と思っていると、ようやく目的地に到着。確かに朝から大勢が食べている。本当にこの街は皆が食べている。
Iさんは初めての経験なので、お粥ではなく焼きそばを取る。朝から焼きそばを食べるなんて、と思うが、香港でもかなりの人が食べている。中にはお粥とそばと両方の人もいる。この食欲、凄い。昨晩は散々食べて4人で180元、今朝は2人で53元。その感覚は到底理解できないほど安い。
歩きながら色々と思い出す。広州と言えば、1987年に初めてきた時は、驚きの連続だった。何しろ中国最先端都市。メーターを付けたタクシーが走っていたのは広州だけだったと思う。ホテルの部屋も簡単に確保できたし、黒いボールペンまで売っていた(当時中国では青いボールペンしかなかったが、ここではゼブラのボールペンを売っていた)。
1987年の旅
http://hkchazhuang.ciao.jp/asia/china/mukashi08guilin.htm
そして2000年代前半、何回も広州に出張した。その時は香港のホンハムでイミグレを通り出国。広州東駅で入国した。直通列車は2時間ほどで、快適な旅だった。一番の思い出は2003年の3月、1泊2日で出張。香港を出た時は何も起こっていなかったが、広州からの帰り、ホンハムのイミグレ職員は全員ガスマスクをしていた。SARSの発生だった。実は広州で会った日本人駐在員からも「香港から来たんですか?」と名刺交換を断られたりしていた。まさかあのような大事件になろうとは想像できなかった。その時、「食在広州」、何でも売っていると言われた代表的な市場、清平街が一掃され、今ではきれいな通りになっている。
10時半にI夫妻と合流してメインの茶葉市場へ行く。芳村、名前からしてよい。昔何度も行ったが、更に拡大していた。道路の両側に茶城が出来、もうどこへ入ったらよいか、全く分からないほど。今回はI夫妻の捌きで、単叢とプーアールを商う店へ。オーナーはI夫妻のためにわざわざ今朝潮州より戻ったという。飲み易いお茶が手ごろな値段で売っている。私もこれからプーアールを飲むことにして、手で砕ける茶葉を購入。
次にユニークなオジサンがやっている店へ。店頭には相当に古びた竹に包まれた茶葉が青銅の馬の置物の上に置かれている。聞けばお茶関係の国有企業に勤めていたが、国有企業改革のあった2000年頃に退職し、今のお茶を開いた。雲南省にも事務所を持ち、明日から1か月は雲南で過ごすとか。ビルの3階へ案内される。ここにもオジサンの店がある。こちらは相当に広く、皇帝が使ったというベッドが置かれ、骨董類が並ぶ。相当の趣味人である。
昼は茶葉市場近く、線路脇の荷香居へ行く。本当にローカルなレストランだが、日曜日のせいもあり、人が入り口の外まで溢れていた。中庭部分は池になっており、屋根はあるが、開放感抜群。店内の混み方は尋常ではないが、何とか席を確保する。例湯は季節に合わせて具が入っており、健康的。鶏が名物ようだ。周囲の人々も懸命に食べている。食べることにこれだけ集中するのは簡単ではない。このパワーに圧倒された。
午後は紅茶屋さんへ。雲南省の紅茶を飲んでいると、いつか北京の馴染みのお茶屋さんで出された味がした。聞いてみると「清水三号」という改良種のようだ。お茶もどんどん進化している。ただお茶の飲み過ぎとランチの食べ過ぎで腹が痛い。苦しい。その後I夫妻と別れて、Iさんと二人で市場散策。しかしあまりに広くてすぐに迷子になり、困り果てて、先程の紅茶屋に駆け込む始末。何でこんなに広いんだ。やり過ぎだ、中国。
夕方ホテルに荷物を取りに行き、最寄りの地下鉄駅から広州東駅へ。そして元来た道を淡々と香港へ戻った。日曜日の夕方ということか、列車はかなり混んでいた。途中駅から乗り込む席なしの人で溢れた。それにしても今回の広州は、忘れていた広州を思い出させた。アメージング広州!