4月27日(土) 漢字が無い街
翌朝、Tと朝食を食べる。Tは昨晩従弟のEと相談してくれたが、Eは土曜日の今日も忙しく、また茶畑の情報もあまりなく、進展はなかった。『今晩バンドンの親族が集まる予定だから、そこでなんか出て来るでしょう』というT。そう、そんなものだ。
二人でバンドン市内見学に行く。先ずはチャイナタウンを探そうと思ったが、Eからも『バンドンにはチャイナタウンはない。華人は点在して暮らしている』と聞いていたので、ホテルの近所を歩いて見ると、『華人菜館』と漢字で書かれたレストランがあった。午前10時でお客はいなかった。店員に普通話で話し掛けたが、全く反応しない。カウンターの向こうにいた60代の華人と思われる男性に話し掛けると流暢な普通話が返ってきた。
『インドネシアはスハルト時代に中国語禁止、華人学校も閉鎖された。今の30-50代の華人は基本的に普通話は出来ないよ』と簡単に説明してくれた。2000年以降、華人学校も再開され、漢字の看板を出すことも可能となったが、スハルト時代の弾圧の後遺症か、現地化が非常に進んだせいか、未だに中国語には抵抗があるという。これがインドネシアの華人史だ。その後街を歩いて見てが、本当に漢字はほとんど見当たらず、小さな看板が出ていても普通話が出来る人は限られていた。因みにレストランの味もかなり現地化していると、ここのオーナーは述べている。
昨日見付からなかった駅へ行く。実は反対方向に歩いてしまっただけで、駅はホテルから歩いて10分も掛からなかった。古びた小さな駅。何となく好感が持てた。『ジャカルタへ行く時は電車で行こう』と決め、明後日の切符を買う。紙を渡され、氏名など必要事項を書き込む。窓口では英語も通じて問題はなかったが、何故か一等車しか売ってくれなかった。6万p。これは外国人だからだろうか?
バンドンと言えば1955年、周恩来、ネルー、スカルノなど第三世界の盟主を集めたバンドン会議が開かれた場所。歴史の教科書を思い出し、その会場へも行ってみたくなった。市内と言っても大きくはない通りを歩いて行くと、ようやく会場が見付かったが、何と今日はイベントが開かれており、一般公開はされていなかった。残念。