3.ジャカルタ 残念なホテル
ホテルの外は屋台などが並ぶ下町。ホテルの中はきれいなロビー。アンバランスだ。フロントの男性はつっけんどんな対応で迎えたが、直ぐに上司の女性が出てきて笑顔で非常に良い対応をしていた。これは価格の割に良いと思ったのだが、部屋に入るとクーラーが効いておらず、暑い。慌ててつけたが、一向に効かない。フロントに電話したところ、修理の人が来たが、治らない。仕方なく部屋を替えてもらったが、それでも変わらない。後で聞くとジャカルタの古いビルはクーラーの効きが非常に悪いらしい。このホテルもきれいにしているが、古いビルを改装したのかもしれない。
仕方なく部屋が冷えるまで外へ出る。夕飯を食べようと思ったが、適当な場所がない。この辺りは日本人駐在員なら絶対に夜は歩かない場所だろう。私は歩くのは平気だが、疲れていたので、マックに入り、涼む。インドネシアのマックは予想外に高かった。セットで日本円500円以上した。日本並み、高級だ。客も多くはなかった。冷たいコーラを飲んで一息つく。
ホテルに帰ると部屋は何とか耐えられる程度に冷えていた。外は周囲に高い建物がなく、絶好の夜景なのだが、もうこのホテルチェーンに泊まることはないだろう。WIFIが繋がったことがせめてもの救いだった。
4月30日(火) チャイナタウンを歩く
翌朝はビュッフェの朝食を食べる。宿泊客は中東系、インド系、そして中華系、韓国人もいて、インターナショナル、席がないほど超満員だった。やはり料金が安い割にはきれいなのが、集客の要因だろうか。
食後、外へ出る。チャイナタウンを目指した。グロドゥと呼ばれる地区が中華系の住むところと聞いていた。地図で見ると近かったが、ホテルから歩くと30分近くかかった。朝はそれほど暑くはなかったので助かる。グロッゥにはバンドン同様、漢字の看板はあまり見られなかった。大通りに面した場所にホテルの看板があったので、中へ入ってみた。フロントで普通話を使い話しかけたが返事はなかった。
すると横にいたおばさんが『どっから来たんだ』と普通話で問いかけてきた。そして色々と話した。彼女の父親は広東系で、若い頃から苦労して働いたが、インドネシア国籍がもらえず困った話。1965年の革命、1998年の通貨危機、いずれも華人は排斥され、辛酸をなめた。お金持ちはどこへでも脱出できるが、彼女のような庶民は『ただじっと嵐が過ぎるのを待つだけだった』ようだ。『華人は一度外へ出ればそこで骨を埋めるもの』という言葉が重かった。尚このホテルは1泊100元、中国大陸から商売のためにやってくる人々が泊まるらしい。今も夢を追いかける華僑がいるのだ。
それからぐるぐると歩いて見たが、狭い路地に家がぎっしり詰まっているところはチャイナタウンらしいが、漢字の看板もレストランなどで偶に見られるだけで、華人が住んでいるのかどうかわからないほど、同化していた。