芦峅寺界隈
この辺りは実に雰囲気が良い。教算坊という江戸時代の宿坊の庭は見事であった。隣の神社も歴史を感じさせる。その中で博物館だけで現代風で浮き上がっていて、景観上好ましいとは言えない。阿闍梨法印が仏祖報恩のため、建立したという種子石碑が並ぶ坂を下る。ここも古き良き道のムードに溢れている。
布橋、あの世とこの世を渡す、天の浮橋とも呼ばれ、江戸時代芦峅寺の重要行事であった灌頂会の際、女性たちが目隠しして、この橋を渡ったという。やましい行いのあった女性はそこで橋から落ちる、という話は、先日沖縄の久高島で聞いたイザイホーの儀式に通じるものがある。「戒め」「箍」という言葉が思い出される。今の世には「お天道様は全てお見通し」という概念が欠けている。
橋の先には墓があった。ここに過去寺があった証拠であろうか。驚いたことに芦峅寺という寺は既になく、地名として名を留めているのみ。周囲は公園のようになっており、旧家が移築されていて、往時の面影を見ることはできる。
2時間後、ビデオ上映をみた。立山の歴史や自然に関するものだった。歩いて見てきたことが説明されており、興味深い所もあった。立山信仰、私の中には殆どなかったイメージが膨れた。そしてビデオが終わると、場内のカーテンが開き、立山連峰が一望できた。ビデオ上映中は降っていた雨はなぜか上がっていた。観客は私の他に一人だけ。勿体無い景色だった。
博物館の受付によれば、「バスは時刻表通り動いている」とのことであったが、今日は休みのような気がして、歩いて千垣駅に戻る。そしてやはり駅に着いてもバスの来る気配はなかった。博物館の人は通勤は車でありバスなどに乗ることはないので、知らないのだろうが、間違った案内により、電車に乗り遅れたりしたら、目も当てられない。何しろ1時間に一本程度しかないのだから。そのまま電車で富山へ帰った。
そしてNさんに聞いた「反魂丹」を売る老舗の薬屋、池田屋安兵衛商店を訪ねた。ここは駅から少し離れた商店街の近くにあった。堂々とした店構え、中には昔の薬作りについての展示物があり、観光客が見学することもできた。勿論薬を買いに来る地元に人もいた。実は先日訪ねた蛭谷は和紙の産地でもあり、富山の薬を包む紙として使われたのかと推測、尋ねてみたが、「江戸時代以降、薬を包む紙は八尾で作られている」との回答であった。蛭谷の謎はここでも解けなかった。