8月27日(火)
3.仁川
中華街
今朝は仁川のチャイナタウンへ行ってみることにした。聞く所に寄れば、地下鉄1号線に乗って途中で1回乗り越えれば仁川に行けるらしい。空港のある仁川とは少し離れているので空港線は使えない。 ボーっと電車に乗ること1時間弱、東仁川に着いた。ここで降りるとよいと教わったが、どこを見ても中華風の建物は見えない。表示もない。駅員に聞くと、『次の仁川駅へ行け』と言われてしまう。後で分かったことだが、東仁川から歩いて行っても行けなくはないが、遠かった。
また電車で一駅。仁川駅前には中華門があり、それらしい。これは最近作られた物。チャイナタウンを観光地として発展させるための方策だ。門を潜り、坂を上ると、中国物産屋、中華レストランなどが見えてくる。横浜中華街の小型版のように感じられる。午前中早いせいか、お客は殆どいない。
かなり歩いて行くと街が切れ、下り坂に。日清境界線、という場所があった。清末に仁川は開港され、日本も清も租界を設けた。港町仁川には清国人は勿論、日本人も多くやってきたようだ。1884年に日本と清国の境界線を引いた場所がここだった。自国内にこのような境界線があること、朝鮮半島の歴史は重い。丘の上に公園があり、そこから港を一望した。
フェリーターミナル
公園から下り、港へ向かう。見た目より距離がある。今日はさほど暑くはない、と言っても8月末。モンゴルから来た身には辛い。ようやく仁川港へ着く。そこにはフェリーターミナルがあり、表示によれば、青島、天津、大連など、中国の沿岸都市と10数時間で結ばれている。やはり中国は近いのだ。
2007年頃、青島など山東省を中心に、韓国企業家の夜逃げ事件が何件も報じられた。加工貿易の限界、低賃金、低コスト時代の終わりを察知し、逃げ出したのだが、良く中国側の港で拘束された、と言われている。それはこのルートを使って韓国へ戻っていたのだろう。
実は清末も山東から大量の中国人が仁川へやってきた。義和団事件など、国内が乱れ、国を捨てる人が続出、移住先としてこの地も視野に入っていた。そして日中戦争、国共内戦で国民党兵士の一部は朝鮮半島に逃れている。勿論冷戦時代、この航路は閉鎖されていた。中韓の国境正常化がなされた90年代の初め、再開され、チャイナタウンも活気を取り戻したと言われている。
ちょうど青島からの船が到着した。観光案内所で中国語を使ってみたが、韓国人が何とか対応してくれた。ここでは中国語は必須。中国人も観光客というより、商売などで来ている人が多いように見えた。中国語の地図を貰ってまた歩き出す。