Uさんに先導されて教会へ赴く。曇り空ではあるが、空気はよい。教会はこの町の大通りに沿ってひっそりと建てられている。1階は教会で2階から4階は居住スペース。牧師さんの家族が住み、Uさんも住んでいる2階の一室を与えられる。『教会に入る泥棒はいません』ということで、部屋のカギは渡されない。
部屋は入り口から一段上がっており、そこに布団が敷かれている。広さは広い。トイレとシャワーもあり、十分。4階まで行けば、無線でネットも使える。これで1泊300元。有難い値段である。勿論キリスト教徒でもない私は、Uさんの友人ということで特別に泊めてもらっているのである。
Uさんが『取り敢えず行きましょう』と言う。どこだか分からないが行こうと言われれば行く。彼は階下でバイクの後ろを指し、乗れと言う。バイクの二人乗り、久しぶりだ。と言っても狭い町のこと、すぐに目的地に着く。そこは通り沿いの一軒の家。
中に入ると、2人がお茶を飲んでいた。客席に座っていたのは、阿里山から来ていた茶師の青年。これから埔里に茶作りに行くと言う。今年は例年より冷え込みが強く、どこも茶の芽の出が遅い。作業は大幅に遅れている。そして品質も?という感じであろうか。茶師というのは、お茶作りの重要なポイントである発酵や焙煎を行う人。台湾では各地で茶畑が造成されたが、この茶師は需要に追い付いていない。
もう一人は何と日本に3年滞在していたというL君。日本語で挨拶する。私以外の3人はいわばプロ。皆飲み方からして違う。阿里山の高山茶新茶を飲むと、うーんと首を傾げていた。この家の跡取り息子だという。Uさんとは大の仲良し。
茶師が出発すると言うので外へ出る。そこへ向こうからおじさんが一人歩いてきた。Uさんが『光演さんだ』と言いながら、呼び止め、家の中に導く。誰なのか、この人は。この方は、この町の町長もやり、その前は農協の組合長だったという林光演氏。この方が実は凍頂烏龍茶をスーパーブランドにした仕掛け人であると聞き、驚く。
林さんは突然の質問にも丁寧に応えてくれた。凍頂烏龍茶の歴史は長く、「1865年に林鳳池が科挙の試験に合格し、その記念に福建省より持ち帰った36本の烏龍茶の苗木の内、12本を凍頂山に植えたのは我が家の祖先です」。林さんは林鳳池の親戚の末裔に当たり、凍頂烏龍茶を世に知らしめた農会の組合長であった1976年に茶の品評会を実施、一大ブームを演出した。
そこら辺に居る普通のおじさんに見える飾らない林さん。いきなりの展開に驚くものの、台湾茶の歴史を訪ねる旅に相応しい出だしとなる。