車で15分ほど行くと陳さんの店である和果森林が見てきた。何だかコテージ風で面白い。2階に上がると人で溢れていた。確かにここで昼ごはんは食えない。まるで観光地の土産物売り場の様相。何だここは。
見ると紅茶作り体験コーナーあり、紅茶試飲があり、観光バスで乗り付けてくる。特に今日は土曜日で親子連れが多い。私はベランダの一番端に座り、忙しい中陳さんの説明を受けた。「ここの紅茶は100前の老樹から作られている」驚きである。しかも「その老樹は日本人が植えたのである」え、なに?日本統治時代であることは分かるが、日本には紅茶鎖倍は殆どなくそのノウハウはないのでは。
陳さんは「私の義父を紹介しよう」と言って、老人がやって来る。石さん、83歳。日本語は全く話さないが国語はペラペラ。この世代の方としては珍しい。石さんの話は衝撃的。「自分は林口の茶葉伝習所で日本人より茶作りを習った」一体何年前の話だ。よく聞くと1949年頃である。伝習所と言うと何だか江戸時代の雰囲気がある。しかも日本人技師は日本統治終了後も残されており、台湾人に教えていたというのだ。
「日本の先生たちの技術、知識レベルは高かった。例えば紅茶にはミルクを淹れない方が良いと言うのは最近言われていることが、私は伝習所で既に習っている。日本人はきちんと研究していた。」「あの頃台湾人は金がなかったけど、伝習所は無料だった。有難かったな。」と石さん。そして1年で卒業すると地元に戻り茶工場に就職した。
その茶園は終戦前持木さんと言う方が所有しており、終戦で台湾政府に接収された。「持木さんは一銭ももらわずに帰って行った」と言う。石さんはそこの主任としてお茶作りに務めたが、台湾紅茶の名声は低く、戦後長い間、苦難の道を歩く。「多くの農家が茶樹をつぶしてビンロウ樹を植えたよ。そっちの方が管理は楽だし、儲かったからね。」「でもうちは違った。必ずここの紅茶は復活すると信じて、老樹を守ってきたんだ。」
そして転機は1999年の921大地震。埔里一帯は壊滅的な被害を受ける。「市長が町おこしの一環でここの紅茶の注目した」ことにより、宣伝が始まり、震災という悲劇と相俟って、日月潭紅茶として見事に復活。和果森林はその象徴として、評判を取り、現在のようなブームが起こった。
石さんは3時間余りも疲れた様子もなく語り続けた。こちらが気を使って「そろそろ夕方ですが、この辺に宿はないでしょうか」と聞くと奥から名刺を取り出し、「民宿に泊まるか」と聞く。