16. ついに魚池へ
翌朝起きると、民宿のご主人、兄妹のお父さんである梁さんが待っていてくれた。先ずは朝食を頂く。眺めが絶景の母屋でテーブルに着く。腐乳、卵焼き、ゴーヤの煮物、アスパラガスのお浸し、そして地瓜のお粥、実に丁寧に作られており、コンパクトで美味しい。日本の旅館の朝ごはんを思い出させる。
そして荷物を纏めて、梁さんの車に乗り込む。はて、どこへ行くのだろうか。何と家族連れのお客さんと一緒にブドウ園に行くと言う。何だか久しぶりだったので着いて行く。そのブドウ園は不思議であった。何とブドウが木になっていた。それも幹に直接ブドウが付いていたので、ビックリ。ちょっとグロテスク。ブラジル産とのこと。子供たちは大喜びで盛んに採り、そして頬張る。
お客さんと別れ、梁さんと二人旅へ。日月潭に道を取る。20分ほど行くと最近出来たという向山遊客中心へ行く。ここからの眺めが良いと梁さんが気を使ってくれたのだ。日本人が設計したと言う建物は低く湖を捉えており、なかなか優雅な造り。中には日月潭の文化や歴史が展示されており、日月潭紅茶の宣伝にも余念がない。
そして愈々魚池の茶葉試験場へ向かった。ここは日月潭の水里から少し行った小高い山の上にある。本来であれば歩いて散歩がてら上るらしいが、今日は時間もないので、車で上へ。アッサム種の茶樹を両側に見ながら上ると、試験場へ到着。ここからの眺めはよく、日月潭が一望できた。今日は土曜日であり、多くの人がここからの眺めを楽しむ。
梁さんは門番に「知り合いがいるので中へ入れて欲しい」と交渉を始めたが、頑として聞き入れたれない。土日は開放しなようだ。それはそれで仕方がないが、試験場の建物の後ろに見える木造の建物が気に掛かる。梁さんによれば、あれが日本時代に建てられた茶工場で現役だと言う。やはりここで紅茶の研究をし、紅茶を作っていた日本人がいたのだ。
写真を撮りながら少し下る。するとそこに記念碑が見える。「故技師新井耕吉郎記念碑」と書かれており、その横の解説を見ると何と「台湾紅茶の守護者」とあるではないか。この人は一体誰なんだろうか。どうしてここに碑があるのだろう。よく読むと新井さんは日本時代の最後の所長だったようだ。それでも碑が建つのだから余程の貢献があったのだろう。実に興味深い。しかし梁さんに聞いても分からないと言う。この碑は古いが新井さんのことが語られたのはごく最近のことらしい。兎に角よく分からないが面白い物が出て来た。
山を下り、水里へ戻り、大来閣というホテルに入る。何故ここに来たのかは分からない。何と天福銘茶でお茶を飲むらしい。正直天福はお土産物屋さん、というイメージしかなく、ちょっと身構える。梁さんは駐車スペースが無いとボヤキながら、いきなりホテルの横に停めてしまう。いいのだろうか。すると店から女性が出て来て、駐車スペースを空けた。
この女性、童さんは梁さんと同窓生。30年に渡り、茶の販売に携わってきたベテラン。淹れてくれたお茶もどうやらお店の物とは違うらしい。「お茶が美味しいよ」、とか「買ってね」、などは全く言わず、返って、「ここからの日月潭の眺めは最高よ」と言い、外へ出るドアを指さす。確かにここは絶好のロケーション。写真を撮る。
童さんの話によると「試験場の新井さんに関してはこのホテルの総支配人が詳しい。3年ほど前、新井さんの親族がここを訪れた際も、彼が案内していた」と言う。これは貴重な情報だ。新井さんの子孫は台湾に関わりがあるようだ。しかし残念ながら総支配人は休日で出勤していなかった。次回を期そう。
埔里へ戻る途中、製茶工場を見学する。ここも魚池にある。行くと古そうな工場であった。日本時代の建物ではないとのことであったが、年代を感じる。中は最近の流行を取りいれ、ショップがある。その奥には現役の製茶場が見える。「台湾農林魚池茶葉製茶工場」と書かれている。周辺には茶樹が植えられており、この付近が茶園であることも分かる。
ここはもしやすると終戦後日本から接収した場所ではないだろうか。そう思いながらも確認できるものは見付からない。辛うじてこの工場が1959年に建造されたものであることがプレートから見えたのみ。日本時代の紅茶との関わりは謎のまま、取り敢えず黄さんの指示にあった魚池訪問は一応無事に終わった。