翌朝一番で恵美寿の黄さんを訪ねた。勿論魚池を行ったことを報告するためだ。黄さんは私の報告を満足そうに聞いてくれ、色々と話をしてくれた。そして一言、「新井さんや日本時代の日本人の功績は大きい。しかしそれを誰も書いていない。我々は既に日本語世代ではない。もし我々がいなくなれば、もう後は日本時代の話が分かる人間はいなくなる。日本人として是非とも新井さん達のことを書き残して欲しい。」と。
これには大きく頷いたものの、難題があった。「黄さん、何か資料ないですかね?」思わず尋ねた。すると黄さんははっきりと「ない」と言う。あれば誰かが書いていたということだろう。それにしても一体どうやって書けと言うのか。黄さんも勿論考えていた。
「徐先生しか分からない。紹介するから徐先生の所へ行け。」また指令が下る。しかし徐先生とは何者で、どこにいるのだろうか?それを聞こうとしているとお客さんが入ってきた。それはお客ではなく、雑誌の取材に来た女性記者2人組。黄さんは私の方から意識が離れてしまい、記者に向かって昨今の茶業について語り出す。
茶の特集記事を書くと言う記者は事前に質問をメールしており、話題はそちらへ。黄さんは質問に対して熱弁を持って回答。20分ぐらいで話を切り上げ出掛ける。私も当然のようにお供する。どこへ行くのか?ちょうど店の向かい側で媽祖の周年行事が行われていた。台湾人にとって如何に媽祖が大切な存在であるか、それは海を渡ってきた大陸系にとり、命を預けた相手であり、無事に台湾へ運んでくれた恩人なのである。粗略には出来ないと言う。
「材木街」と呼ばれ、木材加工業が今も軒を連ねる寧夏路を南へ下る。直ぐに警察署が見える。市政府警察局大同分局。昔の台北北警察署。台湾に議会を請願した林献堂、蒋渭水両氏が逮捕・拘留された場所だそうだ。建物は日本時代によく見られる赤レンガ。
更に下ると静修女中と言うカトリック系の女子高がある。1917年スペイン人神父により創立されたと言うが日本時代は日本人も学んでいたのだろうか。それとも台湾人のためにあったのだろうか。
南京西路で右折。ここは昔円公園(円環)と呼ばれた繁華街。私が初めて台湾に行った1984年には道の両脇びっしりと屋台が並び、非常に賑わっていたが、現在では円形の建物を作ってしまい、結果的に機能しなくなっている。夜市としては、北側の寧夏夜市が有名で、ここの食べ物は美味しいと評判。残念ながら最近は朝寧夏路に来ることが多く、夜の味わいを知らない。
黄さんが立ち止まる。向かい側に巨大な法主公廟と書かれた建物が聳える。何だ、あれは。2階から4階まで廟である。元々はこの辺りで茶葉取引で財を成した商人たちに信仰されていたという。何故このような形になったのだろうか。
しかし黄さんが立ち止まったのは、別の理由からだった。男装社と書かれてビルの前に碑があった。「二二八事件発祥の地」。1947年に闇タバコ取り締まりのいざこざから端を発したこの事件は国民党による台湾人数万人の殺戮に発展、台湾全土を恐怖に包み込んだ。その様子は1989年に公開された「悲情城市」と言う映画に詳しい。当時私は台北に駐在していたが、戒厳令解除が間もなくのこともあり、二二八を公に語ることはタブーであった。東京でこの映画を見て「こんな映画を作って大丈夫か」と言うのが率直な印象であった。
官吏によるタバコ強奪、それがこの場所で起き、そして今では碑が建っているが、残念ながら気に留める人は多くない。時代は過ぎて行ったのだ。今や中国大陸との経済交流の活発化が、台湾人、特に若い台湾人の抵抗感をかなり薄めている。