5.徐先生とお会いし、茶葉試験場へ
翌朝今回の最大の目的である徐先生を訪問すべく、台北駅に居た。徐先生からは「各停に乗るように」と注意があり、従う。現在高速鉄道あり、特急ありの中、各停に乗るのは久しぶり。自動販売機で目指す埔心駅までの切符を買い、ホームへ。
電車は韓国大宇製。確か数年前、歌鶯に行った時に乗った。歌鶯は陶器製作が盛んな場所として行ってみたことがある。朝7時台のこの電車は通勤用。板橋や中歴などで降りる乗客が多い。
約1時間乗って、埔心駅へ。正直周囲には特に何もない。駅に着いたら電話するようにと言われていたが、何故か何度電話しても留守電になる。これは困った、と思っていると黄さんから渡された手書きの地図を思い出し、住所を見ながら訪ねて見た。結局駅から10分ほど歩いた所で徐先生宅に到着。先生もずっと待っていたらしく、驚きの表情。
先生のご自宅は駅前の通りに面していたが、そこから奥にかなり長い構造となっていた。実に雰囲気のあるいいお宅。居間を通り、物置を通り、ようやく家の中心であるご先祖が祭られている間へ。ご先祖は1700年代に広東省より渡ってきた客家。先生が子供の頃、この辺りは全て茶畑で人家はあまりなかったよし。
先生は既に私の来意をご存じで、早速新井さんの資料を下さる。先ずは写真。集合写真に各人の名前が入っており、誰が誰かすぐ分かる。そして最近書かれたいくつかの雑誌のコピーなど。貴重な内容であった。
先生は光復後の1952年にここ埔心にある茶葉試験場に入場。以来45年間を茶葉の研究、発展に尽くされてきた。その成果は退職直前に書かれた試験場の「場誌」及び最近出版された「台湾の茶」に詳しい。ただ先生が入場した1952年には既に 日本人研究者はおらず、その後の日台茶業関係者の交流の中で幾人かの人々をしている様子。実に流暢な日本語がそのことを物語っている。尚ご本も初めに日本語で書いてそれを翻訳していると言うから凄い。
先生は数年前に足を悪くされたが、私の案内をするためにわざわざ車の運転をして下さり、試験場へ連れて行ってくれる。感謝の言葉もない。80歳を越しておられるが、その行動力は実に精力的。今も日本人の書いた論文を翻訳していると言う。
試験場は駅から歩いて10分も掛からない所にあった。皆が「本場」と呼ぶ試験場、魚池や台東などにある試験場は「分場」であり、ここが本家。ただ正直何故ここに本場があるのか、不思議であった。先生によれば1903年に日本が試験場を作った頃はこの辺も一面茶畑(今は全く見られない)。鉄道が通り、政府のえらいさんがやって来るにも便利であった。昭和天皇が皇太子時代にこの付近を訪問、記念に植えた木もあったとか。当時は急行列車も停まる駅であったようだ。
本場はそこそこの広さがあったが、しんと静まり返っていた。製茶課に行くとようやく2人の職員がおり、徐先生に丁寧に挨拶する。退職したとはいえ、徐先生は権威ある顧問であり、一目置かれている。ここではあらゆるお茶の研究をしているとのことであったが、当日は場長以下、各地に品評会出席のため不在であった。
先生は慣れた手つきで事務所の電話を取り上げる。魚池の分場に電話し、誰か私の相手をするように依頼してくれている。これは力強い。分場も本場同様品評会などで人が出払っているが、課長の一人が対応可能とのことで、再び魚池へ向かうことが確定した。「結局本場には日本人の資料はない。あるとすれば魚池しかない」との結論だ。
その後本場内をご案内頂き、日本時代の建物などもかすかに残っていることを確認。そしてすぐ近くの壊れかけた日本家屋を眺め、「あれが試験場に派遣された昔日本人が住んでいた場所だよ」との説明を受けた。今やその面影を殆ど留めない埔心のかすかな記憶である。