そして修理なった車に乗り、ついに魚池茶葉改良場へ。前回は門前までであったが、今回は事前連絡があり、すんなり中へ通される。製茶課長が対応してくれた。彼は台東の試験場に20年勤務し、ここ4年こちらで働いている。単身赴任で週末は台東へ帰るらしい。
彼は1冊の分厚い本を差し出した。ここに全ての資料があると。それは「場誌」と書かれた本で、1996年に出された茶葉試験場の90年間の歴史が刻まれた極めて有益な本であった。中身は好きなだけコピーしてよいと言うので早速確認に入る。
新井さんの記述などを見るとこれまでの資料や徐先生の話のままであったが、試験場の歴代所長に関する記述や茶葉伝習場の卒業生名簿、など興味深いものがいくつかあった。しかし一体誰がこんな詳細記述をしたのだろうかと裏を見るとそれは何と退官直前の徐先生本人であった。確かに一番詳しいのは先生と言うことになる。
裏側に1938年建造の茶葉工場があったが、外観からの見学となる。檜造り、ということで、当時としては極めてモダンな建物であったろう。今でも現役で使われていると言うから凄い。中の設備もごく一部は当時のままとか。日本が台湾に入れた力の一旦を見ると思い。
更にその裏に、茶業文化展示館と言う建物があり、特別に中を見学させてもらった。そこにはあの許文龍氏が製造した4つのブロンズ像の一つが置かれていた。そしてこの試験場の歴史が語られていた。
更には資料として、新井さんから讃井元さん(京都帝大卒で新井氏の部下、戦後は農林技官)への直筆の引き継ぎ書が展示されていた。ここで初めて、文書ながら、生の新井さんと出会った。しかしその文字からは彼の人となりを読み取ることは出来ない。
何とか他に手掛かりはないかと、徐先生からもらった写真を製茶課長に見せると同じコピーを持っていた。そしてこの写真に写っている人で今も生きている人が二人いる、と言い出す。一人は日本人のTさん、この写真を持っていて提供したご本人である。この方の名刺は直ぐに課長の手元から示された。東京に戻ったら連絡を取ることとした。
そしてもう一人は台湾人。実は先月朱さんという方が無くなり、先週納棺したと言う。誠に残念であるが、歴史はどんどん遠ざかる思い。では、もういないのか、いや「楊さんは生きていますよ」との天の声。
製茶課長は電話機を取り上げ、何か大声で話している。そして「今から行きましょう。楊さんが待っています。」と言うではないか。突然の展開に戸惑う。