11.新井さんと働いた台湾人
製茶課長の車に先導され、埔里へ戻る道を行く。この辺りは昔紅茶畑であったと聞いていると運転席のお父さん。彼も興奮気味である。道から少し入った所に、いくつか家があった。坂を少し上ると向こうで手を振っている人がいた。それが楊さんであった。とても90歳には見ない。課長とは懇意らしく、握手を交わす。私に向かっていきなり「よくいらっしゃいました」と日本語で声が掛かる。
製茶課長の車に先導され、埔里へ戻る道を行く。この辺りは昔紅茶畑であったと聞いていると運転席のお父さん。彼も興奮気味である。道から少し入った所に、いくつか家があった。坂を少し上ると向こうで手を振っている人がいた。それが楊さんであった。とても90歳には見ない。課長とは懇意らしく、握手を交わす。私に向かっていきなり「よくいらっしゃいました」と日本語で声が掛かる。
突然の訪問で驚いただろうが実に快く迎えてくれた。お手伝いの女性が果物を置いていく。家はこの辺りの伝統的な家屋か、平屋で風通しが良い。楊さんは既に日本語を殆ど忘れており、耳も少し遠くなっているため、課長が大声で通訳する。さっきの電話も本人と話していたことが分かる。
新井さんについては「熱心で厳しい人でした。いつも事務所に居るタイプではなく、茶畑などを歩き回っていました。」と印象を語る。よく覚えているのは亡くなった時のこと。自分は立ち会っていないがと断ったうえで「亡くなった晩、泊まり込んでいた同僚が茶畑のほうに歩いて行く新井さんの姿を見たんです。思い入れがあったんでしょうね。」と。
1947年2月、当時すでに日本時代は終わり、試験場も接収されていたので、新井さんの葬儀などは行われずに、ただ数人で遺体を茶園に持っていき、そこで荼毘に付したと言う。それがその時出来た新井さんへの最高の経緯だったようだ。
ただ新井さんの考え方、日常生活、などについては、「私とは身分が違う方だったので」と特にコメントは得られなかった。しかし新井さんと実際に一緒の働いた方から直接お話を聞き、感慨ひとしおであった。
お父さんも途中で「新井さんに霊を感じる」と、何やら神秘めいたことを言い出し、いよいよこの旅もある種のクライマックスを迎えた。