17.茶葉伝習生と会う
翌朝恵美寿の黄さんに報告に行った。何しろ今回の旅は徐先生を紹介してもらったことから始まった。徐先生から魚池の試験場を紹介され、とうとう新井さんと働いた台湾人とも面会した。図書館から新井さんの論文も出て来た。これらのことを掻い摘んで黄さんに報告し、感謝した。
黄さんはお店の他に、公務で忙しかった。今週はドイツからの団体を受け入れるとか。また日本からは毎年2団体を受け入れているが、今年はどうだろうか、といった話も出る。どんな日本人が来ているのかと見ると、壁に寄せ書きがあり、感謝の言葉が綴られていた。その中には、あの入間の極上茶仕掛け人、H氏の名前もあった。確か彼は、台湾茶の勉強をして、萎凋に嵌り、台湾茶の製茶機を日本に買い込んで研究している。それもこの黄さんが受け入れていることが分かる。なるほど、皆繋がって来る。
私の報告に黄さんは満足しただろうか。やはり何とか本に纏めないと許されないのだろうか。但し今回の旅で、一人の人にスポットを当てて、物を書くのは非常に難しいことが分かった。出来れば台湾の日本時代に台湾紅茶で貢献した日本人たちの物語にしたいところだが、どうであろうか。
恵美寿に李さんがやって来た。彼も組合の一員。アメリカ駐在が長く、お茶貿易には精通し、流暢な英語を話す、如何にも台湾の第二世代。実は一昨日、広方園の湯さんの所に寄った際、李さんが来てくれた。話していると「林口の茶葉伝習所で勉強した台湾人を知っている」というので、無理を言って紹介してもらうことにした。
李さんは私を自分の店に連れて行ってくれた。恵美寿からは歩いて5分、道一本隔てているだけ。昔は本当にお茶屋が連なっていたことがよく分かる。ただ彼の店は輸出中心で小売りはしていないので、店の形式ではなく事務所。
そこには既に茶葉伝習所戦後2期卒業生が待っていてくれた。私が卒業生名簿を見せるとゆっくりと自分の名前を確認。その後、同級生などの名前をなぞり、懐かしそうにしている。徐に流暢な日本語で、「彼はこの前死んでしまった。この先生はいい先生だった。」などと一人ずつについて、コメントが出て来た。こちらは必至でメモするが間に合わない。
そして分かってきたことは、第2期の時代で、既に日本人の先生(研究員)などは帰国しており、先生は日本人から習っていた台湾人になっていたこと。彼の場合はお兄さんが昔の卒業生であり、お茶にも詳しく、入学は簡単だったが、一般の応募者は非常に多く、入学は難しかったことなど。当時は日本が去り、混沌とした時代。無償で勉強でき、その後の仕事にもつながる伝習所は魅力的だったかもしれない。
しかし伝習所を卒業後、皆が簡単にお茶関係の仕事に着けた訳ではなさそうだ。その中で彼はお茶の貿易を仕事とし、83歳の今も、李さんの会社の顧問と言う形で関わっている。それはそれで凄いことだ。しかし伝習所の概略は分かったが、日本人との繋がりは掴めなかった。