ブログ寺子屋チャイナは既に新規掲載を停止しています。
今後は『ブログ茶旅』に内容を転載し、役割を終わる予定です。
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つくしアゲイン
帰りに明日の空港行きのリムジンバスをチェックした。何とカヤホテルのすぐ近くに乗り場があるという。明日は仁川ではなく金浦なので気は楽だったが、荷物が多いので電車で行くのは嫌だった。ホテルのカンさんがこのバスを教えてくれた。
ホテルに帰り休む。すると何となくまたつくしに行きたくなってしまった。先日撮った写真をEメールで送り、そして出掛けた。今回は時間が早かったのでお客は少なかった。愛想のよい彼女が出てきて歓迎してくれた。
ママも後からやってきてまたおしゃべりした。写真も話題になった。突然ソウルに親戚が出来たような気分になった。いつ来ても楽しい居酒屋、そんな空間が実に貴重だった。今日はトンカツとエビフライのミックスを頼み、また腹一杯食べてしまった。お客は相変わらず、韓国人が殆どだった。
8月31日(土)
リムジンバスでカード使えず
朝5時半に起きて、ホテルをチェックアウトした。まだ外は暗かった。空港行きのリムジンバスは5時台からあるというが、30分に一本。大体計算してバスの来る時間にバス停に行くと10分程度でやってきた。乗ってしまえばこちらのもの。
ところが使える筈のTカードがなぜか反応しない。実はお金も計算して金浦までの料金しか入れていなかったのだが、運転手は仁川まで行くと思い込んでいて、残金不足となったようだ。言葉が通じない。お客は待っている。仕方なく1万Wを取り出すと、仁川までの料金、7000Wを取られてしまう。これは困ったものだ。
バスはすでに満員で何とか席を確保する。それからいくつかのバス停に停まったが、皆立っていくことになった。このバスは金浦経由仁川行だが、今後は金浦行と仁川行を分けた方が間違いも少なく、混雑も緩和されるように思う。
実はバスには中国人も結構乗っていた。バスに置かれた冊子には中国語が使われており、買い物場所のコマーシャルなどは特に中国語が目立った。昔の日本のハワイ旅行、のような雰囲気を感じる。そんなことを考えているとわずか30分程度で、金浦空港に着いた。
空港でアップグレード
金浦空港は90年代、何十回も出張で使った空港だった。当日は仁川がなく、全ては金浦。当然のことながら十数年を経て、かなりきれいになっている。先ずは借りていた携帯電話尾を返却。日本ではすぐに料金が分からず、後でメールが来てクレジットカード払いだったが、ここではすぐに料金が提示され、現金で支払いことが出来た。この差は実はかなり大きい。
チェックインカウンターでは、北京行のチケットは認識されていたが、なぜかその後の乗継便、バンコック行は認識されていなかった。確かに航空会社は違うのだが、同じスターアライアンス、当然問題ないと思っていたので、思わず、『えー、何で』と言ってしまうと、アシアナの女性はニッコリして『今回はアップグレードになりました』とビジネスクラスの空港券が渡される。
これは偶然なのか、それとも彼女の機転か、はたまたマニュアルか。とにかくお客の不満に対する速さには驚いた。中国なら何か問題があればそこから交渉になるが、恐らくはここ韓国では交渉を避ける手段が構築されているように思える。私のケースはクレームとも思えないので、単なるラッキーか。
免税店では相変わらず中国人が朝から買い物に余念がない。店員も流暢な中国語で買い物を促している。日本語のできる店員もいるが、マイナーな存在だ。最後の最後まで、朝早くから買い物に熱を上げる中国人、その熱意には敬意すら覚えるが、それでよいのか、と思わずにはいられない。
帰りはビジネスクラスで、アシアナのサービスを満喫した。エコノミーでもサービスの良さが感じられたのだから、ビジネスなら当然。このサービスにはまさに敬意を表する。
完
江南
そのまま地下鉄に乗り、江南へ向かう。ここも90年代は仕事で時々訪問したが、どうなっているのだろうか。目指す場所が分からないので、取り敢えずまた新世界百貨へ行く。ここは高速バスターミナルに隣接していた。次回はバスでどこかへ行った見たくなる。
百貨店の内容は市内と変わらない。スタバで無料珈琲を貰い、飲む。するともうやることがない。江南は何をする場所か、全然分かっていなかった。また地下鉄に乗り、もう一つの場所へ行ってみるが、そこもビルが並んでいるだけで特に面白味はなく、退散。
再び仁寺洞へ行く。平安さんは店にいたので、またお茶の話をする。お茶は本当に良いキーワードだ。これがあれば時間はいくらでも使える。そしてどんどん深まり、落ちていく。親しさも増してくる。次回は来年、韓国の茶畑を巡ることが出来るのだろうか。
それにしても、ここにある古茶樹で作ったお茶には何かの力がある。それは何か到底わからないが、味わいがあり、そして飲みやすい。どうしてもこの産地を訪れたいと思うが、ご縁があるだろうか。
ソウルの高級住宅街ヨンヒドン
思い切って昨晩聞いたヨンヒドンにトライする。どこにあるか分からず、言葉も通じない場所へ行く、これは旅の醍醐味だ。取り敢えず昨日シュウシュウと会った新村駅へ。そこからタクシーを捕まえて、『ヨンヒドン』と言ってみると、何とか通じた。上々。
タクシーで15分ぐらい行くと、漢字の看板が見えた。この辺かな、と思っていると運転手が車を停めた。降りてみる。中国レストランが数軒見えたが、チャイナタウンとは思われない。むしろ高級住宅街であった。ちょっと歩いて見ると、本当にいい家が並んでいた。そしてよく見てみると、表札に韓国語と並んで漢字が書かれている家がある。これは間違いなく、華人の住まいだ。ただそれとは分からないようにしてある。韓国で成功した中国系、お金のある人はひっそり暮らすものだ。
正直顔を見ても、韓国人か中国人か分かり難い。結構違うはずなのだが。そして中国語は聞こえてこない。既に何代か前から住んでいる人々なのだろう。ここで中国料理を食べたかったが、レストランも少なく、時間も早かったので断念した。勿論漢字で書かれた看板はあったので、中国語は通じる筈だが。
戻りは思い切ってバスに乗ってみる。タクシーで道が分かったので、バスで帰れると踏んだのだ。バス停にはハングル表記が多いが、所々漢字が見え、それを頼りにバスの番号を選んだ。ちょっとスリリング。まあ、昼間なので問題ないが、もし違う方向へ曲がったらすぐ降りられるように身構えた。途中ヨンセ大の前を通る。名門大学だ。バスは何こともなく、新村へ戻った。冒険は終わった。
台湾無国籍パスポートを持つ韓国華人
安先生とは途中で分かれ、またカヤホテルへ戻る。今晩は香港人トミーの紹介で韓国華人に会うことになっていた。地下鉄新村駅で夜8時に待ち合わせたが、お互いが分からなかった。彼女、シュウシュウは思ったよりずっと若かった。彼女はきっと私がもっと若いと思ってやってきたのだろう。
近くのサムゲタン屋に入る。サムゲタンも90年代、よく食べた。日本人は合うのだ。シュウシュウは祖先が山東から来たが両親共に韓国生まれ。ある意味で完全な韓国人だ。だが話していると何と彼女は『無国籍』だという。高校まではソウルの華人学校に通うが、華人のための大学はなく、彼女は台湾へ留学した。ソウルの華人は台湾へ留学するか、韓国の大学へ行くか、その時点で選択を迫られる。同時に韓国の大学へ行けば、自ずと韓国籍を取る方向になり、その取得は容易らしい。
彼女はその道を選んでいない。先祖が国民党系なのだろうが、だからと言って台湾がパスポートをくれるわけではない。無国籍パスポート、という証明は出してくれるが、台湾ビザは取らないと滞在できない。何とも不思議な境遇だ。日本でも在日韓国人などで同じ問題が起こっているのかもしれない。
現在彼女は香港人であるトミーなどと仕事をする上で中国語を使っている。韓国人の友達とは韓国語を話している。家はヨンヒドンというソウルの華人街にあるらしい。ソウルにはチャイナタウンはないと聞いていたのだが、どうやらあるらしい。地下鉄などは通っていないので、バスで行くしかないと言われる。彼女はやはり韓国人とは少し違う。非常にソフトな女性で好感が持てる。初めて会った気がしないタイプ。若い上海人の雰囲気がある。
8月30日(金)
1909年に設立された華僑学校
翌朝は再度明洞へ。昨晩シュウシュウから聞いた華人協会を訪ねるためだ。明洞には観光案内人がいる。彼らは日本語、中国語、英語を使い分け、観光客の道案内をしている。これは素晴らしい。地図も3か国の物を持ち、人によって的確な言語を配る。ボランティアかと思っていたが、市に雇用されているという。変な勧誘は姿を消し、明るい明洞になっている。
明洞の端に目指す華人協会はあったが、中には人はいなかった。ここで韓国華僑の歴史と現状を聞きたいと考えたのだが、残念ながら次回となった。入口付近にいた若者はちゃんと中国語を話したので、実はソウルにも相当数の華人が存在していることは確認した。
協会のすぐ近くに華人小学校があった。1909年創立と言う由緒正しい学校。1909年と言えば、韓国併合前年、この時期、ソウルでは一体何が起こっていたのだろうか。この年にできた意味があるのだろうか。校舎は古いが立派、華人が市内にも多くいることを窺わせる。ただ校内に入ることはできない。
朝ごはんを食べていなかったのでちょっと早い昼ご飯としてビビンバを華人協会並びのレストランで食べる。味噌汁がやけに美味しい。食後にはヤクルトが配られる。これも面白い。この付近は華人街ともいえる場所、漢字の看板が多い。両替所を覗くと、人民元の両替率が良い。
8月29日(木)
4年生と単位
翌朝9時過ぎに安先生はやってきて、朝ごはんを食べさせてくれた。律儀な先生だ。大学の周囲にはあまり店などないようで、学内でトーストとコーヒーを頂く。安先生はそこで働くおばさんとも気さくに話をしていた。こういうコミュニケーション、大事だな、と感じる。
そして4年生に、また同じ話をした。韓国でも日本同様、就職は大変、またこの国は『内定即就職』という習慣があり、就職が決まると学校に来ない学生が出て来るらしい。安先生はそれも不満であり、本日の授業でも『授業に来なければ単位は出さない』と告げていた。しかしそれでは就職できないではないか?
『実際に卒業できなかった学生もいますよ』と安先生は平然と言う。自らの信念は曲げない、それは凄いが大丈夫なのだろうか。『私の評判は皆知っているはずだから、授業を取る学生は理解しているはずだ』と言う。ちょうど授業が終わると部屋に赤ちゃんを連れた若い夫婦が訪ねてきた。旦那は日本人だった。奥さんが安先生の学生で、何と卒業できなかった人だという。それでもちゃんと子供が出来れば先生に見せに来る、安先生の魅力だろうか。
日本人先生と学食
この大学の日本語科には日本人の先生が何人かいた。お昼は日本人の先生、2人も入れて食事に行く。ちょうど雨が降り出し、遠くへ行くのを断念。学食へ向かったが、雨のせいもあり、大混雑だった。一応先生用に席はあるのだが、食事を取るのに大行列が出来ていた。ここでも安先生が日頃のコミュニケーションを生かして、特別に早くランチを貰ってくれた。安先生はこの大学の創設された20年前から奉職している古参教員。きっと名物先生なのだろう。
日本人の先生たちも色々な経緯でここへやってきている。海外で外国人に日本語を教える、それは簡単そうで実は難しいことだろう。今回私も話をしてみて、彼らは何が分かるのか、分からないのか、も分からず、結構苦労した。私は一方的に話すだけだが、先生はその内容を理解させなければならない。
しかも日本語を勉強しても就職の問題もあり、果たして学生にとって良いことなのかどうかさえ、怪しい。教えるモチベーションを維持するのは大変だろう。また韓国の田舎に住むのも大変だ。韓国語が出来ればまだいいが、そうでなければ言葉の壁もある。勿論教える際にも韓国語が必要になるかもしれない。しかも必ずしも韓国が好きだから韓国で教えている訳ではなさそうだ。
帰りは学校のバスで駅まで行く。安先生も一緒だった。電車がやってきたら、安先生は急いで乗り込む。何とその電車は急行で、ソウルまで普通より30分近く早く着くとのこと。やはり韓国語が分からなければ生きるのは難しそうだ。今回は先生のお蔭で実に貴重な体験をした。
安先生の厳しい指導
昼ごはんは安先生と国際交流課のスタッフと取る。キムチチゲをご馳走になった。実に久しぶりにチゲを食べ、満足した。付いてくるキムチや野菜も美味かった。ご飯が進む。やはり人数がいると色々と食べられてよい。
この南ソウル大学はアジア各地の大学と提携しているが、最近は中国との提携が活発だ。地理的に近い山東省のほか、いくつかの大学から留学生を受け入れている。そしてこちらからも中国へ留学する。今や韓国では外国語が出来ないのはダメ、という風潮があり、就職を考えると、日本語より中国語の方が有利な状況となっている。
午後は1年生の授業だった。迎えに来た金さんも含まれている。韓国では学校によっては中学2₋3年から日本語を学ぶところもあり、1年生と言ってもそのレベルはかなりのバラつきがあった。完全に話に付いてこられる学生もいるが、全く分からない人もいる。それは当然で仕方ないことだと思っていたが、安先生は途中から熱を入れて通訳を始めた。
そして理解できない学生を名指しして叱咤する。『理解できないからと言って諦めて聞こうとしない態度はダメだ』と相当に厳しい。先生は学ぶ姿勢に関しては特にうるさい。この姿勢、日本には今やなくなってしまい、教師も生徒に求めなくなっているが、重要なことだ。
午前も午後も質問はいくつも出た。日本の大学で話をしても、活発に質問が出ることは少ない。どうしても意識してしまうらしい。だが外国語でみんなの前で堂々と質問できる、韓国の学生は積極的だ。そして先生も『日本語を勉強するというより、話の中身を学ぶべきだ』と言ってくれた。これは嬉しいこと。そしてなんと『明日の午前中、4年生の授業でも話してくれ』と依頼され、快諾した。安先生によれば『奥さんに話したら、わざわざ日本人に来てもらって3回も話をさせるなんて常識がない』と言われたそうだが、その常識破りの熱意は、皆に受け入れられるだろう。
安先生の部屋には常に学生が出入りしている。厳しい先生だが、積極的に関わってくる学生は歓迎している。来週も外国から先生がやってくるらしいが、その受け入れを学生に任せている。『これも勉強なんです。外国人と接するあらゆる機会を捉えて、勉強させます。勉強とは語学だけではなく、受け入れアレンジの仕方やイベントの実行など、様々です』と実に実践的だ。日本でもこんな教育できないのだろうか。学生はお客さんではないのだから。
甘いブドウ
夜は安先生他2人の先生と田舎料理を食べに行く。どこの国でもそうだが、その土地土地の食べ物が一番おいしい。キムチだって1つとして同じものはない。ここは鶏肉が美味しかった。韓国はどうしても牛肉、焼肉のイメージが強いが、一般人は牛肉を食べることはあまりないようだ。一体いつから韓国では牛肉を食べるようになったのか、これは謎だ。
また韓国人、特に男性は酒が強い、というイメージもあるが、意外と酒を飲まない人も多い。勿論車の運転がある人は当然だが。今回も酒は殆ど飲まなかった。そして一番驚いたのが、デザートとして巨峰が出てきたこと。その甘いこと、日本の高級巨峰に引けを取らない。韓国の農業力もかなり向上しているのだろう。
今日は先生の好意で大学の宿舎に泊めてもらう。キャンパス内にある宿舎は完全にホテルだった。箱モノ行政で立派なものを作ったがあまり利用がなく、宝の持ち腐れだという。何とNHKワールドプレミアまで見ることが出来た。周囲に音はなく、ぐっすりと眠れることが出来た。
安先生の驚くべき活動
学校に着くと先ず安先生の部屋でビデオを見た。安先生のプログラムは広島以外にもう一つあった。それが日本海ゴミ拾い。先生が大学院時代に鳥取砂丘に行き、その海岸で見つけたごみにハングルが書かれていたことから、『恥ずかしい』と感じて、一人で拾い始めたのだという。
その後大学の教員となり、鳥取大学と協力して、学生共々毎年ごみを拾い続けている。これも広島同様フェリーで往復、日々の移動は自転車というエコぶり。『世の中にはエコと言いながら、ごみを大量に出す人、車を運転する人がいるが、それはエコではない』といい、何とごみ拾いをする時の昼ごはんは『パンの耳』と水のみ。パンの耳ならごみは出ないし、捨てるのはもったいないと。
最近はこの活動が評判を呼び、日本のテレビにも取り上げられている。各市町村もわざわざ韓国からごみを拾いに来てくれる学生に対して『せめて昼ご飯に美味しいものを』と幕の内弁当などを用意してくれるのだが、安先生は不満だ。ただパンの耳が手に入りにくい事情も理解している。
日本の学生や地域のボランティア団体も活動に賛同して、一緒にごみを拾う。これが日本人との交流にもなり、日本語の勉強にもなるという。全く無駄がなく、そして有意義な活動だ。これを思いつく安先生は、気骨のある人。
午前中の授業は3年生だった。私がお話することになり、文章の書き方と旅について、簡単に話した。日本語の理解力はかなりあり、普通のスピードで話しても付いてくる学生が多かった。日本に行ったことがある学生も多く、日韓の違いなどについても少し考えてみた。我々と違って若者には吸収力がある。間違った指導をしなければ確実に理解して行くものだと感じる。
8月28日(水)
- 4. 忠北道
広島生活2か月で日本語を覚えたキムさん
翌日は大学の同窓生Oさんから紹介された南ソウル大学の安先生を訪ねる。この南ソウル大学、名前からしてソウルの南にあるのだろうとは思ったが、安先生に電話すると『とても遠いので、誰か迎えに行かせる』という。恐縮したが、その後私が借りた携帯に日本語でメッセージが入る。
『明日南営駅改札で7時に待っています』、え、一瞬何かの勧誘かと思ってしまったが、それが安先生の教え子のメールだと気づいて驚く。確か安先生は1年生を行かせる、と言っていたはずだ。1年生でこんなメールの文章が書けるのか?
朝7時、ちょっと緊張して改札に行くと、確かに若い女性が立っていた。金さん、日本語学科1年生。しかもこの3月から日本語を習い始めたばかりだと、普通に日本語で話す。これには驚く。たった5か月でこんなに日本語が出来るようになるのか。それには訳があった。
電車の中で話を聞く。朝の通勤ラッシュはソウルにもあるが、我々は1号線を逆方向に進むため、座ることが出来た。金さんは『実は6‐7月の2か月、広島に行っていました』という。何で広島?安先生のプログラムに広島で2か月日本語を勉強する、というコースがある。その内容がすごい。『1か月1万円で生活します』、聞き間違いかと思ったが金さんの日本語は極めて正確だった。
その為には『食事はほぼ自炊、電気も節約し、部屋のクーラーも付けません』と。え、それって日本語の研修、それともサバイバル研修?韓国人学生数人で一緒に行ったようだが、広島の夏は暑かっただろう。『部屋は暑いので公民館や図書館、偶に原爆記念館にも行きました』という。そしてそこで地元の人とコミュニケーションが生まれた。『スーパーの安売りは午後8時半からなんです』、当然地元では目立つ存在だったろう。『皆さん親切でした』、それはそうだろ。そこで生活に必要な日本語を覚え、会話の勉強もしたようだ。大学へは自転車通学、徹底したエコと自立の精神。これは凄い教育だ。因みに韓国と日本の往復も、飛行機などは使わずにフェリーで10数時間かけるそうだ。その徹底ぶりは見事だ。
ユニクロに就職するスミさん
そんな話をしている内に電車に安先生が乗り込んできた。途中駅に自宅があるようだ。安先生の日本語はほぼ完ぺきだ。金さんとも普通に日本語で会話している。私が一年生の時、こんなことはあり得なかったな。
安先生は私が大学生だった頃、わが母校に研究生として在籍。その後広島大学で博士課程に通った。だからそのご縁で学生の研修は広島で行っている訳だ。実にユニークな先生であることは一目で分かる。広島研修の話を先生に聞くと『韓国は金持ちになったと言ってもお金のない学生もいるんです。その子たちにも日本へ行く機会を与えようと思えば、渡航費、生活費を最低限に抑えればいいんです』とこともなげに言う。
そして電車に乗り合わせた学生と気楽に話す。スミ、と呼ばれたその女子学生も雰囲気も日本語も殆ど日本人だった。広島の研修にも行き、名古屋の大学にも1年交換留学で行ったという。そして就職先はユニクロ。如何にもがんばり屋、という雰囲気が漂う。日本人学生は彼女等には歯が立たないだろう。語学力、ガッツ、どれをとっても勝てる要素がない。
安先生の授業は厳しいらしい。出席は毎回必ず取る、漢字テストも毎回ある。授業中の携帯禁止。学生たちも辛いという。特に大学がかなり遠いのでソウル市内から通ってくる人にとって勉強は大変らしい。
長かったはずの電車、1時間強があっという間に過ぎた。駅を降りると、大学行きのバスが来ている。乗り込んで10分ぐらいで、キャンパスに到着。ここはソウル市ではなく、京畿道でもなく、忠清北道になるらしい。大学のソウル集中を防ぐ措置とか。実に空気の良い、広々したキャンパスだった。
つくしのホスピタリティ
夕飯はどうしようかと思ったが、一度ホテルに帰り休む。今日はかなり歩いており、疲れたので、近くで済ませることに。昨晩Kさんから『ここは昔からあり駐在員行きつけの店だ』と言われた「つくし」に行ってみる。カヤホテルのちょうど向かいにある。中に入るとお客で満員だった。お姐さんが日本語で『一人?』と聞くので頷くと、席を1つ作ってくれた。何となくビールを頼んでしまう。そこは居酒屋だから。
それにしても何となく来たことがあるような気がしてきた。ママに『昔一度来たことがあるようだ』というと、とても喜んでくれ、サービスだと言って、ビールのおつまみを出してくれた。こんなことは日本では今や考えられないだろう。しかも一人で来たというので、話し相手になってくれ、最近のソウルの飲食事情を教えてくれた。
この店は元々日本人が始めたが、リーマンショックの頃、帰国してしまい、今は韓国人のみで営業している。お客も日本人駐在員が徐々に減ってきており、今は韓国人サラリーマンが主体。だが『私たちは日本の居酒屋の雰囲気を大切にしていきたい』と言い、それを守ってきている。ただ『昨年から客単価は下がっている』と韓国経済が決して良くないことも教えてくれた。
ここは揚げ物が有名だというので、カツ丼を食べてみた。日本で普通に食べるカツ丼と変わりはなかった。量は多かったが。ママは『味はどう?』と聞いてくる。日本人が美味しいと感じる味を保つためには日本人のお客さんの率直な意見が聞きたいというのだ。『私はいくら頑張っても韓国人。味覚は違う』と実に謙虚だ。
店内には著名人の来店写真なども飾ってある。2階では宴会が行われていて忙しい。そんな中でもちゃんと相手をしてくれる、凄いな、と思う。記念写真を撮り、後でメールを送る。こんな交流がしたくなる店、しかもほぼ初めて行った店、有難い。
西大門監獄
仁川から電車で来た道を戻る。ホテルへ戻ろうかとも思ったが、そのまま電車に乗り、3号線に乗り換えて、仁寺洞へ行ってみる。韓国の古本屋は仁寺洞にあるはずだったが、今はもう殆どない。韓国の茶の歴史を知るすべを求めたが、ただの観光地だった。昨日も行ったお茶屋さんを訪ねるも、平安さんは不在。
Kさんから一度は見ておくのが良い、と言われた西大門監獄を思い出し、また地下鉄に乗る。独立門という駅で降り、地上に上がると、独立門があったが、改修中でよくは見えなかった。1897年に独立の意思を示すために作られた門。パリの凱旋門をモデルにしているとか。手前には清の施設を迎え入れるための迎恩門の柱が残っており、意志が感じられる。
そしてその公園内を歩いていくと、高い塀が見えてくる。西大門監獄は1908年から80年にわたって監獄として使用され、日本時代は独立運動家を収監し、拷問などを加えたと言われる場所。独立後も独裁政権が民主活動家を弾圧したという。現在は一般公開され、負の歴史が語られている。
正面の古い建物を中心に展示がされており、順路に沿って見ていく。ここで亡くなった人々の写真が壁一面に張られていた。監獄の様子も見ることが出来るが、激しい拷問などが行われたであろうその場に立つとたじろいでしまう。赤子を連れた女性がおむつを替えたり、乳をやるのに苦労している話、単に勇敢な愛国主義者、という面だけでなく、人間、という側面を展示していることに打たれる。
敷地の隅には処刑場がある。その前には一本の高い木が立っている。『慟哭のポプラ』とも呼ばれる。刑の執行前にその木に縋り付いて嘆く、その場面を想像すると、なんとも言えない気分になる。日本と韓国の歴史を考え、これからを考えていく上でも、この監獄はやはり一度訪ねてみる価値があると思う。
新世界百貨とロッテ免税店
帰りに新世界百貨店に寄る。実は仁川の空港で貰ったパンフレットの中に新世界百貨店に行くとスタバのコーヒー無料という券が付いているのを見つけたのだ。しかもそれは中国語の案内だった。ちょっと覗いてみようと思う。
4号線の駅を出て少し行くとその建物はあった。かなり新しいと思ったら2005年に建てられた新館だった。その隣には1930年に三越のソウル支店として建てられた歴史的建造物が未だに現役で使われている。こちらはいかにも三越、という雰囲気の建物だ。高級品ばかり売っている。新館の10階に行くとスタバがあった。券を出すと本当に無料でコーヒーをくれた。これは何となく嬉しい。
午後の高級デパートはお金のありそうな奥さん連中がおしゃべりに花を咲かせていた。日本と何ら変わらない風景。免税コーナーもあり、ちょっと探してみたが中国人の団体観光客がいる気配はなかった。スタバ作戦も不発か。中国人はどこにいるのだろうか。興味が湧いてきて歩き出す。
実に懐かしい、重厚な建物が見えてきた。旧朝鮮銀行本店、1912年に東京駅などを設計した辰野金吾により設計された。現在は韓国銀行貨幣金融博物館として使われているようだったが、既に時間が遅く閉館していた。
更に行くとロッテデパートがあった。そこの前には観光バスが停まり、中国人がたむろしていた。中に入り、エレベーターに乗ろうとすると中国人で大盛況。ようやく乗って9階の免税フロアーで降りようとしたが、何とお客がフロアーに溢れ、かき分けなければエレベーターから降りられない始末。これには参った、というか呆れた。
昔は日本からの観光客が多かったこのフロアー。今や完全に中国の天下。化粧品コーナーに群がる女性達、高級腕時計を真剣に眺める男性達、熱気がある。売り子も中国語で話かけて来る。日本人だというと『日本のお客さんはここで腕時計なんか買わない』と。そりゃそうだ、1つ100万円もする時計をソウルで買う人はあまり聞いたことがない。
上の階には韓国のりやキムチのコーナーがある。ここへ行くと突然売り子が日本語になるからおかしい。日本人は本当にお金を落とさなくなっている。帰りもエレベーターに乗るのに一苦労。こういう光景を見ると『中国人富裕層の購買力』などと報道されるのだろうが、富裕層なのだろうか、こんなに押し合いへし合いして。庶民としか思えない。
ついでに南大門まで歩いて行く。ここも懐かしいが、今はきれいに整備されており、面白味には欠けた。マツタケを売る店が多い。ここにも中国人はそこそこいた。近くの両替所も漢字が目立つ。両替してみるとレートも明洞より良かった。