チャイナタウンの台湾系4代目
昼時になり、チャイナタウンへ戻る。港近くにもレストランがあったが、一杯か休みだった。店の前には呼び込みのおじさんがいる。如何にも韓国っぽい。だが彼らは中国語を解さない。どうしてよいか分からない。中には中国語に対して嫌な顔をする人すらいた。これでもチャイナタウンか?と思ったが、もしや横浜や神戸でも同じことが起こっていないだろうか、と考えてしまう。
仕方なく月餅を売っている店のお婆さんに話しかけてみた。すると普通話が通じた。ただこの店以前はレストランだが、今は月餅などを売るだけとなっていた。『親戚の店はあそこだよ』と言われ、1軒の店に思い切って入る。すると案に相違して、中は完全に中華世界だった。何と店員同士が普通話を流暢に話し、おばあちゃんが孫に普通話で話し掛けていた。全く拍子抜けだ。注文した海鮮炒飯は美味しかった。何と自分でコチジャンなどをつけて味を調える。
聞いてみるとここのオーナーは若い華人で4代目だという。出身は台湾と言ったが、どうやら原籍は山東、祖父は国民党系だったようだ。台湾にも親族がおり、横浜にも大阪にも親戚がいる、という。仁川の華人の実態が少し見えた気がした。周囲の客も観光客ではなく、地元の人が多かった。どこか中国の方言を使っていた。
そう、山東と言えば26年前に行った時、地元の人の言葉が全然聞き取れなかった覚えがある。訛りが非常にきついのだ。ただ従業員たちの言葉は非常に標準的であり、最近は変わったのかと思ったが、ここで働いている人は基本的に韓国人と結婚して韓国にやってきた中国人女性だったのだ。確かに韓国で韓国語が不自由では働く所は限られる。なるほど。
帰りにさっきのお婆さんから月餅を買った。手作りだと言っていたが、芋などが入っており、ちょっと独特だった。中秋節を控え、月餅を売り出しているのはどこのチャイナタウンも一緒。ただ日本のように1年中、月餅を売っているところは少ないだろう。
8月27日(火)
3.仁川
中華街
今朝は仁川のチャイナタウンへ行ってみることにした。聞く所に寄れば、地下鉄1号線に乗って途中で1回乗り越えれば仁川に行けるらしい。空港のある仁川とは少し離れているので空港線は使えない。 ボーっと電車に乗ること1時間弱、東仁川に着いた。ここで降りるとよいと教わったが、どこを見ても中華風の建物は見えない。表示もない。駅員に聞くと、『次の仁川駅へ行け』と言われてしまう。後で分かったことだが、東仁川から歩いて行っても行けなくはないが、遠かった。
また電車で一駅。仁川駅前には中華門があり、それらしい。これは最近作られた物。チャイナタウンを観光地として発展させるための方策だ。門を潜り、坂を上ると、中国物産屋、中華レストランなどが見えてくる。横浜中華街の小型版のように感じられる。午前中早いせいか、お客は殆どいない。
かなり歩いて行くと街が切れ、下り坂に。日清境界線、という場所があった。清末に仁川は開港され、日本も清も租界を設けた。港町仁川には清国人は勿論、日本人も多くやってきたようだ。1884年に日本と清国の境界線を引いた場所がここだった。自国内にこのような境界線があること、朝鮮半島の歴史は重い。丘の上に公園があり、そこから港を一望した。
フェリーターミナル
公園から下り、港へ向かう。見た目より距離がある。今日はさほど暑くはない、と言っても8月末。モンゴルから来た身には辛い。ようやく仁川港へ着く。そこにはフェリーターミナルがあり、表示によれば、青島、天津、大連など、中国の沿岸都市と10数時間で結ばれている。やはり中国は近いのだ。
2007年頃、青島など山東省を中心に、韓国企業家の夜逃げ事件が何件も報じられた。加工貿易の限界、低賃金、低コスト時代の終わりを察知し、逃げ出したのだが、良く中国側の港で拘束された、と言われている。それはこのルートを使って韓国へ戻っていたのだろう。
実は清末も山東から大量の中国人が仁川へやってきた。義和団事件など、国内が乱れ、国を捨てる人が続出、移住先としてこの地も視野に入っていた。そして日中戦争、国共内戦で国民党兵士の一部は朝鮮半島に逃れている。勿論冷戦時代、この航路は閉鎖されていた。中韓の国境正常化がなされた90年代の初め、再開され、チャイナタウンも活気を取り戻したと言われている。
ちょうど青島からの船が到着した。観光案内所で中国語を使ってみたが、韓国人が何とか対応してくれた。ここでは中国語は必須。中国人も観光客というより、商売などで来ている人が多いように見えた。中国語の地図を貰ってまた歩き出す。
ホテルの支配人カンさん
ホテルへ戻るとフロントにカンさんがいた。このホテルの支配人だ。今回連絡を取った南ソウル大学の安先生に宿泊先を告げたところ、『支配人は教え子だ』ということで、紹介を受けていた。こういう出会いは嬉しい。喫茶ルームでお茶を飲むながら話を聞いた。
カンさんは以前ソウル市内の免税店で部長をしていたが、働きながら安先生について日本語を勉強した。そして縁あってこのホテルに就職した。韓国は90年代終わりから激動を迎え、色々なことがあった。政治的にも常に何か起こっている。その中で一貫して日本人客を中心に受け入れてきている。現在はHISと提携し、お客の70%は日本人だという。
最近は中国人観光客が増えているが、彼らは部屋を汚すし、廊下で騒ぐなど評判がよくない。中国人は受け入れないホテルが実は多い。中国人団体は郊外の決まったホテルに泊められているとのこと。その方がトラブルは少ない。
カンさんは実に誠実な人。昔日本にもこんな雰囲気の人がいたな、と懐かしく思い出す。いや今の日本にもいるのかもしれないが、私が出会わないだけ。97年のアジア通貨危機後、実施的に経済が破たんした韓国では、大きな変動があった。その中で生き抜くためには努力も必要だし、根性も必要だったであろう。とにかく誠実に、そして言葉ではなく行動をとる姿勢、日本に必要なことだろう。
韓国から日本を見る
夜は北京時代にお会いし、その後も交流を続けている出版社のK社長と会った。Kさんは日本人だが、20年以上韓国をベースに活動しており、東京に会社がある。4か国語で本を出版する、というユニークな企画を実行したり、最近はスマホアプリなどで成功しているという。そろそろ完全に韓国に拠点を移すとのことで、韓国にも会社を立ち上げた。凄い。
カヤホテルを紹介してくれたのもKさん。この辺は便利が良い。近くの韓国食堂で夕食をご馳走になる。韓国と言えば日本と並んですぐに酒だが、2人とも飲まないので、もっぱら食べて話す。韓国の経済も心配だが、竹島問題も含めた日韓関係も困ったものだ。そして更には日本そのものが大きな問題。
外から日本を見るととても危うく見える。他国のことをとやかく言っている場合ではない筈だが、政府も政治家も、そして見えない力も、国民の注意を外へ向け、国内の矛盾から目を逸らさせている。これは危険な兆候だ。中国も日本も政府のやっていることはあまり変わらない。
食後、コーヒーショップでコーヒーを飲む。この雰囲気は日本と何ら変わらない。日本と韓国が何かで争うことなど、世界的に見えればとても小さなことだし、あまり意味のないこと。現在の若者は日本も韓国もほぼ同じ行動をとっており、コーヒーを飲みながらスマホをいじる、昔と異なり十分理解し合えるはずだ。
スユップとコーヒー
昼は某マスコミのYさんに食事に連れて行って貰った。市庁、ここも懐かしい場所だ。昔の定宿はこの近くのコリアナホテル、ちょっと経費に余裕があるとチョスンかプラザ、ロッテホテルに泊まったこともある。全てこの付近だった。市庁は日本時代のものが残っていたが、いつのまにかその後ろに馬鹿でかい建物が建っていた。周囲もすっきりときれいになっている。
市庁の裏へ行く。この辺も昔はごちゃごちゃしていたが、今は立派なオフィス街。ビルが立ち並ぶ。西新宿あたりを歩いている感覚である。入ったお店は豚肉の店。プサン料理屋で人気があるという。スープに豚肉を入れ、ご飯も入れて食べる。韓国は牛肉とのイメージが強いが、実は豚がよく食べられている。牛は豚の2倍の値段はするので経済的な理由もあるが、豚が旨いと言う理由もある。
食後にコーヒーを飲みに行った。この辺も日本的な対応だ。ソウルには今や急速にコーヒーチェーンが拡大している。大手が5₋6軒あるそうだ。そのうちの1軒に入ると、『ダッチアメリカーノ』という見たこともないコーヒーがある。アメリカーノなのに濃いコーヒーだった。
支払いは多くの人がカードで行っている。サインはなぜか機械に書き込む。これでサイン確認ができるのだろうか、とみていたが、確認している様子もない。どうやら形式的なサインだが、その後どこへ行ってもこの機械があるのには驚く。日本では未だにサインを確認せずにカードを返すところが多いが、これは効果があるのだろうか。
注文後、席に着く。いつ取りに行くのかと思っているとYさんが持ってきた機械が鳴る。ポケベルである。これで準備完了を知らせる。これは良い方法だ。これなら注文後、席を見つけて座っていればよい。因みにこのお店、イメージはスタバを意識して、ソファーやテーブルなど、様々な空間を用意。居心地の良さをうたっているようだ。
本屋と光化門
Yさんに教えられて、近くの本屋へ行く。この地下の巨大本屋も懐かしい。昔出張の合間によく行ったのだ。奥さんのリクエストで、K-popのCDを買いに行く、でも字が読めない。仕方なく誰かに頼んで読んでもらう。そんなことを繰り返した。今回ここに来たのは日本語の本がたくさんあると聞いたから。韓国の茶の歴史に近づく資料はないかと探したが、残念ながら見つからない。これは結構難題なのかもしれない。だんだん疲れてきたので外へ出る。
本屋のあるビルの前に像が見えた。英雄、イシュンシンの像だ。そこを北へ向かうと光化門が見える。更に行く景福宮。李氏朝鮮時代に建てられ、文禄慶長の役で焼失。その後朝鮮総督府庁舎なども置かれた場所。ソウルの中枢だったところだ。青空の下、暑さが堪えてくる。光化門の前に観光客が集まっていた。衛兵の交代が行われている。これには台北を思い出す。風が強い中、韓国らしい生真面目さで衛兵は交代した。さすがに疲れたので、地下鉄でホテルへ戻る。
仁寺洞の金明湯
そのまま歩いていくと、中国ではお馴染みの味千ラーメンが店を出していた。その隣にはトンカツのサボテンが店を出している。日本の外食産業もかなり入ってきているようだが、この2つが隣同士というのは何となくイメージが合わない。繁盛しているのだろうか。
右側に公園が見えてきた。ここの塔は国宝だと聞いたので見に行ったが、完全に囲われていた。傷みが激しいのだろう。なかなか良い雰囲気の模様が描かれており、興味深い。公園には沢山の老人が木陰に腰を掛けていた。なんでこんなにいるのだろうかと思っていると、実に涼しい風が吹いてきた。モンゴルは涼しかったが、ソウルは比べれば暑い。その中で、この場所に座りたくなる気持ちは十分にわかる。
そこは仁寺洞の入り口だった。仁寺洞、10数年前、一度だけ行ったことがある。骨董屋街、何となく古い物を売っている店が多いという印象があった。そして韓定食の店が脇道にある。韓国の銀行の人に連れられて、そこへ行ったことがある。
だがここも観光地化していた。日本語と中国語が飛び交っていた。私は韓国のお茶についての情報を集めたかった。茶博物館と書かれた所へ行ってみたが、そこは博物館ではなく、茶葉を売る店、そして喫茶店となっていた。韓国茶の歴史など、一遍も出てこない。すぐに店を出てしまった。
ふらふらと歩く。すると1軒のお茶屋が目に入った。何となく入る。この辺はフィーリングだ。小さなその店、おばさんが『何を探していますか?』と日本語で聞いてきた。『ウメチャ、ゆずちゃ?』と言われたので、『茶の木の葉で作った韓国のお茶を見せてほしい』というと、おばさんの目が変わったようだ。
『英語は出来るか』とその後は全て英語の会話になった。日本語もかなりできたので、不思議だったが、確かに彼女の英語は完璧で日本語より上手かった。『韓国茶の何が知りたいの』というので歴史と答えると、彼女はノートに3つの地名を書いた。『済州島』、これは歴史が新しい。『宝城』、ここは日本時代に茶木を植えた場所。そして『河東』、ここが韓国茶の起源だ、という。地図がないのでどこにあるのか分からないが、取り敢えず頭に入れる。
そして出てきたお茶にビックリ。韓国緑茶、といいながら、それは緑茶を数年寝かしたプーアール茶のような茶だった。紅茶もある、ということで、同じ茶葉から作った紅茶を飲んだが、甘かった。200年以上の古樹の葉で作ったという。非常に特別な茶。智異山という山の中に自生しているらしい。そんなところがあるのだろうか。興味が湧く。
いつしか店に入って2時間が過ぎてしまった。途中欧米人と日本人のグループが入ってきて、茶を買っていった。店主である平安さんは『分かる人にしか良さは分からない』といいながら、商売の難しさを語っていた。
8月26日(月)
歓迎中国の明洞
翌朝は遅く起きた。モンゴルの疲れもあったかもしれない。取り敢えず明洞あたりへでも行ってみるかと地図を見てみると、このホテルのロケーションが更に抜群だと分かる。昨日乗った地下鉄1号線は幹線であるが、明洞へ行くには4号線に乗り換えなければならない。ところがこのホテルから歩いて5分の所に何と4号線の駅があった。4号線で3駅行くと明洞だった。昔は時々歩いたが、大体は誰かに連れて行って貰ったので、あまりよく憶えていない。適当に歩き出すと日本人観光客の姿が目立つ。
明洞もきれいになっていた。昔はごちゃごちゃしたところ、というイメージだったが午前中のせいか、すっきりして見える。そして観光地らしく日本語の表示も目立つが、それにもまして中国語が多い。4か国語併記の看板もたくさんある。いつの間に韓国はここまで表示を替えたのか。日本のインバウンド関係者は一度視察して、取り入れるべきだろう。
それにしても中国の買い物パワーはすごいようだ。銀聯カード使用は当たり前、化粧品店の前では若い女性店員が盛んに中国語で声を掛けている。日本人の影はここでも薄くなってきている。
明洞聖堂へ行ってみた。100年以上前に作られたこの教会、韓国にはキリスト教徒は多いと認識しているが、日本時代はどのような扱いになっていたのだろうか。何かの会合があるらしく、沢山の韓国人が上ってきたが、それは全て女性であった。婦人会なのか、それとも男性は仕事でこられないのだろうか。この辺も韓国っぽい感じだ。
そのまま北へ向かって歩いていく。昔仕事で通った韓国の銀行ビルがいくつも見えた。今では名前が変わった銀行も多い。これは日本と同じだが、アジア通貨危機時の韓国の衝撃は日本の比ではなかった。ほぼ国が破たんし、全てがひっくり返ってしまった。そこからの巻き返しは逞しい。荒波を乗り越えて今の韓国がある。だがその巻き返しは無理をも伴っている。今後がちょっと心配だ。
29日の夜2週間のインド滞在を終え、バンコックに戻る。正直少しほっとしたが、バンコックだって道路封鎖が解かれている訳でもなく、不測の事態が起こる可能性は高くなってきている。今やアジアが混沌の時代に入ったかのようだ。
今日は来週行く、ミャンマービザを取りに行く。バンコックのミャンマー大使館はBTSスラサック駅近くにあるというので、BTSに乗る。途中、オンヌットあたりで外から大音響が聞こえた。デモ隊がスクンビットを行進しているらしい。
大使館は直ぐに分かった。今は検索すれば情報はたちまち手に入る。お知り合いのサイトはこれ。必要書類分かるし、申請書が大使館にはなく、なぜか200m先の店で5バーツで買うことも事前に分かっていたので、実にスムーズ。
⇒http://ezstaybangkok.com/%E3%83%9F%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%9E%E3%83%BC%E3%83%93%E3%82%B6/
大勢の人が並んでいるとのことだったが、今日はそれほどいない。欧米人がかなり目につく。申請書を記入して、列に並び、申請。番号札を貰い、順番を待ち、電光掲示板に番号が出たら、窓口で料金を払い、引換券を貰って終わり。今日発行を希望をする場合のみ、航空券コピーがいるらしいが、私は明日を選択し、1035バーツ。所要時間1時間弱。因みにビジネスビザとタイ人は窓口が別になっている。
それからBTSでアソークへ出た。100バーツ床屋で旧正月に備えて??髪を切る。相変わらず交差点は封鎖されていたが、人は非常に少ない。デモ行進中かもしれない。のどかなムードが流れている。まあ、しかし不便だ。バスも来ない。
歩いてプロンポンへ行き、食料品の買い出し。2人ほど、ミニのチャイナドレスを着ている女性を見かけ、バンコックにも旧正月があることを実感する。やはり華人はそれなりにいるのだ。そしてスクンビットではデモ隊が更新中。チャイナドレスとデモ隊、今のバンコックにはそれが共存している。
バスに乗って宿泊先へ帰る。デモ隊の隊列は長いが、車両が多く人は少ない。30度を超える暑さ、炎天下で3時間の行進はタイ人には堪えるのだろう。いや、そろそろデモにも飽きているのかもしれない。華人なら今日は家に帰って餃子でも作りたいところだ。2月1日にはヤワラーでのデモも予定されているとか。
いつもの屋台でミカンを買うと1㎏あたり20バーツも高い。これも旧正月プライスだろうか。近くのセブンイレブンによると、旧正月の飾りがあった。これはイベントを盛り上げて商売繁盛につなげようという華人の商魂だろうか?
大衆食堂の陽気なおばさん達
時刻は既に夜の11時。駅の処にパン屋があったが、もう閉店だろうか。何とはなく腹が減り、外へ出る。外へ出るとパンではなく、肉が食べたくなるのが韓国。条件反射だろうか。この南営駅付近には食堂は沢山ある。が、一人で入れそうなところはどこか、ちょっと考える。明洞など観光地には日本語の表示もあり、日本語も通じるだろうがここはローカルエリア。どうしようか。
迷っていると、店の前に日本語表示があるのでそこへ入る。だが店の主人は反応しない。『カルビ』と言ってみると、黙って外へ出ていき、ビルの奥の店を指した。そうか店を間違えたのか。奥へ入ると威勢の良いおばさんの声がかかる。こんな時間でもやっている。そういえば日本でも夜遅くまでやっているところは焼肉屋だったな。
店のおばさんにカルビ、というと、メニューを持ってきて上カルビを勧める。私は安く上げたいので、豚を頼んだ。するとおばさんは豚なら2人前からと言い出し、攻防があった。私が譲らないと、ビールか焼酎を飲めと勧める。これも断ると商売にならない客だなという顔をした。私はさらにライスを頼む。
豚肉は一人前でも大きかった。とても二人前など食える量ではない。よかった、と思っていると、何とライスに大きな鍋の味噌汁が付いてきた。更にはお決まりのサイドディッシュがどっさり。どうやってこんなに食べろっていうんだ、という顔をしていたのか、おばさんがまたやってきて、サンチェに焼いた肉を載せ、味噌を載せ、キムチも載せて包んでくれた。そしてなんと『あーん』しろと言い、食べさせてくれた。
何だか不思議な感覚に包まれた。私が黙っていると『美味しいか』と日本語を使ってきた。これしか分からないらしいが、十分だった。美味しいと伝えるとおばさんは喜んで次ぎ次ぎと作り、口に放り込んできた。こりゃ大変だ。味噌汁を掻き込みながら、どこまで食べられるか格闘した。この好意を無にすることはできない、訳だ。最後まで食べたときは死ぬかと思うほど腹が膨れていた。
おばさん達は皆ゲラゲラ笑っていた。店が暇なので遊ばれてしまったようだ。それでもこの韓国ホスピタリティ、恐るべし。これが若い女性だったら、コロッと参ってしまう男も多いのではないだろうか。この対応こそ、韓国のソフトパワーの源かもしれない。日本には既になく、勿論中国にはあろうはずがない。その夜は腹が一杯で、あのおばさんの笑顔を夢に見そうで、遅くまで眠れなかった。