荷物を抱えてソウル駅
昔はソウル駅を使ったことがなかったのでよくわからないが、今は巨大な駅となっている。空港鉄道から地下鉄に乗り越えようとしたが、駅の端から端まで10分以上かかった。大きな荷物を持って移動するのは大変だ。今回はモンゴルの2週間を含めて計3週間の旅なので、大きなスーツケースを持っている。駅の周辺は暗闇に包まれてはいたが、所々立派な建物が見え、イルミネーションが鮮やかだった。どうも昔のソウルに暗いイメージを持つ私には違和感がある。
ようやく荷物を抱えて地下鉄駅までやってきたが、今度はTマネーをかざしても通過できない。おかしいと思い、駅員に身振りで聞いてみると、スーツケースが大き過ぎて反応してしまうらしい。駅員はこともなげにスーツケースを横にして先に通し、私を通してくれた。何だか不思議な思いだった。
今日のホテルまでは地下鉄1号線でたった一駅。私は一番前の車両に乗っていたが、降車駅の南営には改札が一つしかなく、ホームをずっと歩く。この駅は地下ではなく地上にあり、ホームから周囲が見えた。何となく古ぼけたホテルのネオン、そこには私の知っているソウルがあった。これだけで私はここが気に入ってしまった。
- 1. ソウル1
古いが便利なカヤホテル
駅を出ると、そこには昔のソウルの街があった。何となく暗くて、そしてごちゃごちゃした感じ。字は読めないが入ってみたくなるようなレストラン。酔っぱらいの男性。うすぼんやりしたネオン。
カヤホテルはそんな中、駅のすぐ近くにあった。実はこのホテル、韓国在住20年のKさんに教えてもらった穴場ホテル。立地が良い割にかなり安い。勿論古さは否めないが、ほかのホテルが軒並み先進国料金になっていく中、有難い。エレベーターに乗ると独特の甘いにおいがした。部屋は洋式と韓国式があり、私の部屋はベッドだった。WIFIも普通に繋がり満足。勿論モンゴルとは違い、お湯も十分に出た。もうそれだけで言うことはない。
因みに韓国は日本と電源プラグの形態が異なるが、フロントでいうとすぐにプラグを貸してくれた。これで充電の問題もなかった。フロントのお兄ちゃんは片言以上の日本語を話す。
広い仁川空港
飛行機は定刻に仁川空港に着いた。着陸からゲートまで随分と時間がかかった。更にイミグレまで行くのも時間がかかる。何とも広い空港だ。90年代中頃までは金浦空港しかなかったので、仁川は1₋2度しか使ったことがなく、ほぼ未知のエリア。昔の金浦はイミグレに時間がかかっていたが、今はスムーズ。荷物も速い。
先ずは両替をしようと、懐かしのKEB窓口へ。日本円を出すと日本語対応であっという間に両替できた。今日は日曜日で市内では両替できないよ、と書かれていたが、それはお客を誘導する作戦だった。この辺も賢い。あまりよくないレートで替えてしまいちょっと後悔。
手に入れたウオンを持って携帯ショップへ。10年前同様、韓国にはシムカードはなく、日本と同様携帯電話を借りなければならない。これは不便だ。しかも一日のレンタル料が3000W、電話を掛けると別途料金がかかるシステム。これは高い(日本とほぼ同じ料金か)。店員の対応は実にすばやくて、時間は日本ほどかからないのが良い。
空港鉄道で市内へ
次に市内へ向かう。今回初めて空港鉄道を使ってみる。それにしても空港内の表示は分かりやすい。すぐに駅までたどり着いた。中国ではこうはいかない。空港からは特急と普通があると聞いていたので、迷わず普通電車に乗る。
実は前日北京で、ソウル勤務経験のある同窓生OさんからTマネーカードを貰っていた。これを使えば電車もバスも地下鉄も乗れるという。確かにスムーズに乗れた。お金をチャージする機械も日本語や中国語の表示があり、便利だ。
そして電車。90年代はソウルで電車に乗るのは怖かった。何しろ韓国語しか表示されておらず、それが読めないと行先の方向すら分からなかった。地下鉄などは乗れないし、地上へ出る出口も分からず困ったものだ。だが、今は完全に違っていた。表示は韓国語のほか、英語、中国語、日本語で表示されており、車内アナウンスも4か国語でなされていた。これなら外国人でも問題なく乗り降りできる。進歩したな、韓国。
日曜日の夜で電車は空いていた。韓国人は皆黙々と携帯をいじっている。そうでない人は外国人だろう。分かりやすい。約1時間でソウル駅まで行ったが、料金は僅か4000W。特急でも8000Wだそうだから、日本に比べて何と安いことか。
4. チェンライ
郊外の茶園レストラン
Iさんが車で迎えに来てくれる。車は郊外へ出ていく。どこへ行くのだろうと思っていると、茶園が広がっている場所へ出た。素晴らしい眺めだ。そこにレストランがあった。タイのビール会社が運営しているとか。
ちょっとゴルフ場のクラブハウスを思わせるおしゃれな郊外のレストラン、外は茶畑。最高の情景だった。メニューにも、茶葉を使ったサラダや天ぷらなどが並ぶ。空気もよく、美味しく頂く。勿論お茶も飲む。
Iさんは大手商社を辞めて、チェンライに移り住み、コーヒーの焙煎をし、販売している。チェンライ産の米も扱っている。最近はほうじ茶作りにもチャレンジしており、近々発売するという。チェンライには茶の木、やぶきたを植えている人がいるのだという。香ばしい香りのほうじ茶はタイ人にもうけるかもしれない。勿論日本への輸出も目論んでいる。但し大量生産をするつもりはない。自分の納得のいく茶が出来れば売る、という感じだろう。職人気質だ。
Iさんに車で市内に送ってもらい、WIFIが繋がるカフェを紹介してもらって別れる。そのカフェはオープンで気持ち良い風が入ってきた。それから2時間、溜まっていたメール処理などを行う。周囲はテレビのバドミントン中継に夢中だ。タイの女子選手が今、強いのだ。19歳で世界チャンピオン、これまであり得なかったことが起こっている。
そしてタクシーを呼んでもらい、空港へ。実は自分がチェンライのどこにいるのか分からなかった。カフェの従業員は英語が出来たので、何とか凌いだ。昨日は本当に安いエアアジア便だったが、今日は普通料金のノックエアー。3倍も違っていたが、私はやはりノックが好きだ。買い込んだ茶葉も難なく持ち込めた。
空港での飛行機を眺めていると、夕日が落ちてきた。何とも美しい。タイ北部、バンコックとは違い、喧噪もなく、落ち着ける場所。また来たいところだ。
ビラのオーナーと
その後ビラに戻り、早めの夕食。野菜炒めが香ばしかったり、豚足をまんとうに詰めて食べたり。アレンジャーMさんがここの食事は美味しい、オーダーしてくれ、みんなで美味しく頂く。屋外で何となく雰囲気もよく、お茶を飲みながらゆっくり食べた。
そしてツアーの皆さんはチェンライへ向けて帰って行った。このツアー、日帰りとうたっており、実際2人の人は午後9時の便でバンコックへ戻る。私はオーナーに会いたくて、ここに宿泊することにした。
もう3回目の滞在ともなると、従業員も何も言わずに鍵をくれ、部屋へ行く。今はオフシーズンのようで、空いているので、前面の良い部屋に泊まった。朝早かったので、早々仮眠をとる。あっという間、辺りが暗くなっていた。
ネットをするため、食堂へ行く。黙っていてもお茶を淹れてくれる。嬉しい。そこへオーナー夫妻が帰ってきた。私が来ることはMさんから聞いていたようだが、『会えてよかった』と言われると、こちらも何となく嬉しくなる。
彼らが夕食を食べるというので、ご相伴に預かる。本日2回目の夕飯。美味しい物は美味しい。今回彼らは北京と長春に行ったらしい。北京はお茶の展示会、メーサローン茶の売り込みに力が入っている。長春はタイ人からすると相当に寒かったようだ。ご主人は明日も朝からサンプルを持ってチェンマイへ行くとか。商売は大変だ。
9月17日(火)
朝ごはんを食べながら
翌朝8時前に食堂に行くと既にオーナーが出発しようとしていたが、私を見て、一緒に茶を飲み始めた。やはりこれからの茶業の発展には、台湾以外への輸出及びタイ国内需要の喚起が重要だということだ。タイ国内の方は彼の息子がバンコックで販売を手掛けている。少しずつタイ人にも認知されてきているようだ。最大の輸出ターゲットである中国には頻繁に通い、展示会に参加し、売り込んでいる。昨日までは北京だったが、2週後には上海へ行くらしい。とにかく質が向上してきているので、売り先は重要になってくる。日本でも認知度を上げていきたいようだが、どうだろうか。
ご主人が行ってしまうと、奥さんがやってきて朝ごはんを食べ始めた。やはり中国行は堪えたようだ。特に北方は食事も合わず、おまけに涼しい。娘は『2度と行きたくない』と言っていた。中国は広い、元中国人と言っても南方人には生き難い。娘はホテル業の手伝いを始めたようで、カウンターに陣取り、色々と手配をしている。息子が茶業、娘はホテル業、頼もしい後継者だ。
因みに朝ごはんはいくつか選べるが、私は毎回迷わず、カオトーン。タイのお粥だ。これはにんにくが効いていて美味い。テラスでこれを食べていると幸せな気分になる。宿泊客も楽しそうに食べている。今日はあいにく霧が濃いが、それでも晴れやかな気分。
2006年の訪問記
http://hkchazhuang.ciao.jp/chatotabi/thai/maesalong01.htm
今回もまた車を手配してもらい、チェンライへ降りる。運転手は中国語が話せた。だが何となく景色を眺めながら降りていく。今日はバンコックに帰る前に、チェンライでコーヒーを作っているIさんと会うことになっていた。その待ち合わせのホテルに何とかたどり着く。
《10年ぶりに韓国を歩く》 2013年8月25-31日
かつて90年代に元勤務先で韓国を担当したことがある。香港駐在ながら年間4₋5回、3年半で15回以上は訪れた街、ソウル。サムソン、現代、LGなど大財閥と仕事をしていた頃が懐かしい。最後に行ったのは2003年のSARS直前だったから、あれから10年が経っていた。
『韓国にも茶畑がある』とは聞いていたが、最近何度か具体的な話を聞いた。そして雑誌に書くコラムの関係でソウル行きが現実のものとなった。さて、一体どのように変貌しているのだろうか。楽しみではあるが、既に浦島太郎の心境。
8月25日(日)
1. ソウルへ
アシアナ航空 人情味あるサービス
前日までの2週間をモンゴルで過ごし、北京経由でソウルへ向かった。今回はアシアナ航空を使ってみた。予想通り?アシアナは大韓航空よりも、エアチャイナよりも少し安かった。7月にLAで事故を起こし、中国人学生が3人亡くなっていたのだから、北京発の便が安くなるのは仕方がないこと。
だが飛行機は満員だった。考えてみれば8月最後の日曜日の夕方便、中国人が乗らなくても韓国人は乗る訳だ。飛行機の到着が10分遅れたというアナウンスがある。中国では誤差の範囲内だが、これは日本に近いサービスだろう。ちょっと期待が持てる。
離陸して飲み物サービスが始まった。CAは一人一人ににこやかに、そして実に丁寧に対応していた。これまで中国人のサービスに慣れてきていた私には驚くほど新鮮だった。エコノミークラスで、しかも1時間半しかないフライト。突然バタバタと配るだけと思っていたので、その対応は気持ちが良かった。
着陸のアナウンスが流れ、シートベルトをしろ、座席を元へ戻せ、というと、皆が一斉に従っている。これも中国では見られない反応だった。非常にきちんとしていて、むしろ日本より整然としている。よく見ると、実は中国人もそこそこ乗っていたのだが、このような反応が機内であると自然と従うようだ。大きな声で騒ぐ乗客もおらず、快適だった。忘れていた韓国のイメージが少し出てきていた。
8月24日(土)
さようならモンゴル
本日はモンゴル滞在最終日。N教授とUさんは朝早い仁川経由の飛行機で東京へ戻って行った。私とA教授は昼の便で北京へ行き、そこからA教授は乗り継いで東京へ戻る。Nさんは知り合いもおり、もう1日、UBに滞在する。
もう慣れてしまった朝食を食べる。トーストを焼き、卵を取り、そしてキムチ。今日もそれほどお客はない。モンゴルのかき入れ時である夏に、これしか客がいない、このホテル大丈夫だろうか。既に愛着が湧いている。
今日も快晴のUB。9時過ぎにホテルをチェックアウトし、2週間を共にした運転手君の運転で空港へ向かう。もっと長い時間、居たような気がする。こちらは別れを惜しんでいるが、彼の方は別に仕事があるのだろう、我々を降ろすとあっさりと去っていく。まあ、そんなものか。
空港内は異常に混んでいた。チェックインカウンターは長蛇の列。団体さんが多い。処理能力にも問題があるのだろう。荷物検査は意外とあっさりしており、買い物に行く。モンゴルのお土産と言ってもなかなか難しい。これから北京とソウルへ行くので、モンゴルウオッカを買ってみる。北京で渡す1本と、ソウルまで持ち込む2本に分ける。そうしないと免税にならないらしい。ウオッカの名前はブラックチンギス。如何にもモンゴルらしい。
4年前は北京まで帰るのに31時間遅れたフライトだったが、今日は定刻に飛び立ち、定刻前に北京空港に到着した。これは季節要因が大きいのだが、何だかモンゴルがかなり進歩した象徴のように思えてしまう。これから作られるUB第2空港は日本企業が受注している。どんなものが出来るのか、また見に来たいものだ。
完
カンダン寺
お昼はロシア料理の店へ。立派なロシア正教会の横にあり、本格的なロシア料理が食べられる。ボルシチは濃厚で美味しかった。モンゴルとロシア、この繋がりは当然に深い。店内には葬儀の帰りか、僧侶を囲んで食事をしている一団がいた。こんな風景も珍しい。
午後は特に行く所もなく、名所カンダン寺を訪れた。4年前、私はなぜかこの寺だけ入っていなかった。そこそこの渋滞を潜り抜け、車は西へ向かう。正面は車が停めにくい、とのことで脇の門から入る。広い敷地にハトが沢山いる。結婚式の写真を撮るカップルもいる。
本殿は立派な高い建物、ここがモンゴルにおけるチベット仏教の聖地。だが何となくおしゃれになっている。前の広場を歩いて行くと、古い建物に出会う。あー、ここはこれまで私が訪れたチベット仏教寺院の匂いがする。モンゴルは社会主義時代、宗教を弾圧した。相当に悲惨な状況であったらしい。体制崩壊後、徐々に昔の仏教を取り戻そうとしているのだが、近代化の波とぶつかり、そう簡単には進んでいないように思う。
最後の晩餐
その夜、モンゴル最後の晩。お世話になった商工会議所の副会頭を招いて、食事となった。場所はお洒落なイタリアンレストラン。欧米人も多く、味もまあまあ良い。1皿の料理の量が非常に多かった。それでもアメリカ人の老人がステーキをペロッと平らげるのを見て、我々とは違う、と思ってしまう。まあ、モンゴル料理が口に合わず難儀しており、ようやく美味しい物が出てきたのでパクついたのかもしれない。
モンゴルの商工会も岐路に立っている。会員数は増加したがモンゴル経済も厳しい状況となり、これからどのように発展していけるのか、難しい局面となっていた。中国以外の海外との貿易も重要な業務となってくる。だが例えば日本へ乳製品を輸出しようとしても、日本側の要求が高すぎる。それは品質などの問題だけではなく、検査費用が高すぎて採算に合わないなど、日本の国内保護とも取れる政策にも原因がある。
モンゴルと日本、ある意味で非常に友好的な国であるのだから、相撲ばかりではなく、もっと多方面の交流を深め、両国にとってメリットのある政策を打ち出した方が良いと思うのだが。どうやら政治はそうは行っておらず、経済的な結びつきも強化できないでいる。
ザッハの火事と大渋滞
本日はA教授の買い物をメインに、再びザッハを訪れる。ところが、車で近くまで行くと、なんと火事が発生していた。当然前の道路は通行止め、仕方なく向かいに新しく出来たザッハへ行く。しかしこちらは店が殆ど開いていない。どうやら古いザッハで成功した人々が新しいザッハの権利を買ったらしく、未だに古い方に店のある人は、そちらの荷物の持ち出しなどで精一杯、新ザッハの店など構っていられないようだ。
遠くから見ると、建物の一部が焼け落ちていた。もし我々が行っている時に火事が起こればパニックだっただろう。消防車が駆けつけていたが、防火水の設備がないのか、なかなか放水は始まらない。車は益々近づけない。
いつまで経っても埒があきそうにもなく、テンゲルへ向かう。ところが少し行った所で大渋滞に嵌り込んだ。我が運転手は最初から『この道を行ったらマズイ』と言っていたが、東京が長いUさんはその忠告を聞かずに突っ込んでしまう。そこから延々、ダラダラ状態となった。
普段でさえ、渋滞がひどい道に、今日は火事が重なっている。全く身動きが取れない。歩いたほうが余程早い。UBの交通事情は車の増加に道路が追い付かない。おまけに冬は工事が出来ないため、夏に一斉に道路工事に入る。観光業としてはかき入れ時だが、車は動かない。今や一大ストレスになっている。僅か10㎞以内の道を2時間以上かかって進んだ。
テンゲルはダルハンで行った食肉加工会社の社長とその兄弟が90年代に始めた大規模スーパー。まあウオルマートのようなもの。倉庫のような店舗に大量の商品を積み上げ、纏め売りしている。その手法がモンゴルでは画期的で珍しく、この店は誰でも知っている。今日行ってみると、お客は午前中のせいか殆どおらず、閑散としていた。これも時代の流れだろうか。
お茶コーナーに行くと、韓国製緑茶などが目立つ。安いのだろう。レンガ茶もあるが、どこの製品であるか表示がないらしい。モンゴル語で書かれており、分からないが、写真がチベットのポタラ宮であり、どうやら中国製。中国製は嫌われるため、敢えて表示をしなかったのだろう。Uさんによれば、『紅茶はグルジア産』ということで探したが、見付からなかった。モンゴルとグルジア、あまりにも離れた国で何故お茶の交易があるのか、それはソ連時代の歴史と深い関係がある。今後の研究課題としたい。
『バンコックを封鎖せよ』というスローガンで始まったバンコックの大規模デモ。昨日は緊張の内にスタートしたが、情報を見る限り、大きな混乱はなかった。今日は明日からのインド行に備えて、買い物や銀行へ行くため、街に出たついでにちょっと様子を覗いてみた。
いつものようにスクンビットの外れからバスに乗る。普段と変わらない。ただ無料バスが4台続けてきた。いつもはスクンビットを突き抜ける2番というバスに乗ったが、途中のエカマイで進路を北に取ってしまう。仕方なくBTSに乗り換え。午前10時台としては混んでいた。プロンポンのいつも行く銀行はかなり空いていて、すぐに順番が来た。聞けば、昨日もお客は少なかったという。因みにタイ株式市場、昨日上昇に転じている。為替も思ったほど落ちていない。取り敢えず混乱なし、と市場は見たのだろうか?
お昼ご飯、プロンポンのいつもの定食屋へ行く。普段と変わりない混雑だが、中に学校や幼稚園が休みになってしまった日本人母子がちらほら。いつまで休むつもりだろうか、学校。
そしてプロンポンからアソークまで歩いて行く。今日は日差しは強いがさわやかな風が吹く。なぜか空も心持青く、空気もよい。これは車が少ないせいだろうか。途中で道路が一部封鎖され、アソークの交差点へ行く道が制限されている。バスはここで迂回する。
交差点付近は野外ライブの会場のようだ。四方の道は全て塞がれており、路上に紙を敷いて座る人、無用に歩き回る観光客などでごった返していた。ステージ上では上半身裸の男性が何か盛んに喚いているが、時折笑いが起こる。周囲の皆はホイッスルを吹き、旗を振り、記念写真を撮り、楽しんでいるようにしか見えない。路上には屋台が並び、デモグッズが大量に販売されている。これだけ見ればお祭りだ。宝くじ売りもいつもより多い気がする。後方にはテントが張られており、長期戦の構えもある。
一角でどよめきと歓声が起こる。大勢がテントの方に殺到し、写真を撮ろうとしている。アイドル歌手でも来たかと思ったが、どうやらこのデモの主導者、スティープ氏が演説を終わり、立ち去ろうとしているところだった。噂によれば、デモ参加者は減ってきている。テコ入れのためにも各地を回っているのだろう。
前回11月にもデモを見学したが、その時は『タイのお祭り』と位置付けてみた。今回も基本的には変わらないが、正直ここまで大規模に、市民生活を犠牲にしてまで、デモを実行することは我々には理解できない。しかし我々に理解できないことをすぐに『法治国家でない』とか『民主的でない』と切り捨てることは簡単だが、不思議と見えない何かの力が働いているように思えてならない。
今回の騒動、根本的には既存勢力と新興勢力の利権争い、であるとは思う。だが庶民はいつも振り回されるだけなのだろうか。貰うものはしっかり貰い、楽しむところはしっかり楽しむ、強かな人々がそこに居る。タイは太古より現在まで、このような事態を繰り返しているのかもしれない。するとデモ隊が封鎖した場所は公共スペースというより、神の庭、に思える。神の庭で裁きを待つ人々、いずれが正しく、いずれが間違っているにしても、これは必要不可欠な儀式ということだろう。最後は流血の大参事、というのだけは避けて欲しい。だが神の裁きは時として残酷、ということも。ちょっと心配なタイである。