K先生
夕方市内の外れのホテルへ行く。実は本日大学と大使館にはモンゴル研究の第一人者であるK先生が同行してくださった。K先生はずっとモンゴル研究を続け、1973年にUBの日本大使館に滞在、それ以降も、毎年モンゴルを訪れ、司馬遼太郎に付き合い、『草原の記』のツェベクマさんとも交流。また開高健の魚釣りに同行、1か月もモンゴル奥地で行動を共にするなど、実に豊富な経験をお持ちであった。日本人でモンゴルを知る第一人者である。
このホテルのレストランは8階にあり、周囲が一望できる。市内にはどんどん建物が建ち、河沿いにも以前あったゲルの姿はなく、建物が建ち始めている。『モンゴルは急激に変わった。ちょっと急激すぎるのが心配』とK先生はまるで我がことのように言う。
既に引退されているK先生、毎年夏にはUBに戻ってきて、長期滞在する。このように1つの国を一生涯追い続ける、これは素晴らしいことだ。奥様も苦楽を共にされており、ご夫婦で思い出話をされる。楽しそうだ。『モンゴルは年々便利になっている』とのお話の中に、『年々つまらなくなっている』というニュアンスを感じたのは私だけだろうか。
8月23日(金)
社会主義時代のホテルサービス
UBのホテルに戻った瞬間、シャツをクリーニングに出した。一応当日夕方出来上がると書かれていたが、心配だった。案の定、部屋には戻ってこなかった。ところが問い合わせても『既に届けた』の一点張り。言葉が上手く通じないのだろうか。今朝N教授の部屋から我々のシャツが発見された。何とクローゼットにきちんと入っていたらしい。部屋を間違えていること、及びどこに入れたかを他の従業員が知らなかったこと、ちょっと驚きだった。
驚きと言えば、お湯が出ない状態も続いていた。この時期UBは真夏、と言っても夜の気温は10度台。水シャワーを浴びると風邪をひく危険性がある。仕方なく、電気ポットで湯を沸かし、体を拭くことにしたのだが、そのポットが壊れてしまっていた。何度が使えるポットを要請したが、要領を得なかった。その内、何とシャワーの湯の方が先に出てしまう。まあ。こんなものだろうが、まるで社会主義時代の中国(今も形式だけそうだが)を思い出し、懐かしんでしまう。
この旅も早2週間が経とうとしている。長い夏休みが終わる。学生時代のように宿題に取り掛かる。原稿書きである。本日は朝6時に目が覚め、2時間、わき目を振らずにPCに向かった。同室のNさんがあとで『あんなに真剣な顔をこの2週間、見たことがなかった』と言ってくれた。2週間、何も書かない生活は活力を与えたようだ。
101茶園
先日バンコックのポーラの店で出会ったフランス人が『最近メーサローンの101茶園を訪ねた』と言っていた。できれば寄ってみたいと思っていると、ちゃんと寄ることになっていた。こんなのも茶縁だろう。
翠峰茶園から車はかなり坂道を上がり始める。101茶園は山の中腹にあり、喫茶コーナーから下を見ると茶畑が広がっている。雰囲気は悪くない。早々に喫茶を開始。型どおり、ウーロン茶などを頂く。うーん。茶器など大量に売っており、タイ人観光客が多いのかな、と推測する。ここもある意味、観光地化している。
背後に工場があるが、今日は稼働していない。茶畑にも人はいない。好ましい風景だけがそこにあるが、急こう配を歩いて茶畑に入る自信もなく、断念。時間も押していたので、早々に立ち去る。
3. メーサローンビラ
茶工場
そしてメーサローンにやってきた。思いの外、急カーブが多く、ビックリ。実はこれまで2回ここに来たが、カーブを意識したことはなかった。ようやく懐かしのメーサローンビラに到着したが、何とオーナー夫婦と娘は北京へ行っており、今晩帰ってくる予定だという。それでも馴染の従業員がおり、茶工場を見学したらどうかと勧められ、行くことにした。
茶工場はビラから2㎞ほど離れた道沿いにあり、私でも道は直ぐに分かった。今回は車があるので楽に行くことが出来る。既に連絡がいっていたのか、快く迎え入れられる。ちょうど摘みとった茶葉を干しており、萎凋も行われていた。少数民族のおばさん達は枝とり作業に余念がない。
そして昨年も会った茶師の張さんは健在だった。いや、益々元気に茶作りをしていた。今回は女性が多いせいか?こだわり職人の張さんもご機嫌で、色々と話をしてくれた。茶園ツアーの良い所は生産者と直接話が出来、質問できること。作り立ての烏龍茶を張さん自ら淹れてくれ、話が弾む。
今やここで作られる烏龍茶は台湾の阿里山と遜色がない物も出てきている。土壌、環境、技術がなせる業だ。最近は烏龍茶ばかりでなく、紅茶の生産も始まっている。それにしても現地の水で淹れるお茶は何故美味しいのか?不思議なほどだ。
そして今回何より驚いたことには、台湾人だと思っていた張さんが実は福建人だったこと。しかも鉄観音の産地である安渓、しかもしかも私が5月に2日泊まった茶農家の張さんと同じ大坪という村の出身だった(http://www.yyisland.com/yy/terakoyachina/item/5772)。同じ張姓、聞いてみると何と大坪の張水来さんを知っていた。これこそ茶縁であろう。一気に私と張さんの距離は縮まった。張さんの作るお茶が何となく鉄観音に近いと感じたのはそのせいだったのか。
2011年12月のメーサローン茶工場訪問記
http://www.yyisland.com/yy/terakoyachina/item/5070
大使館で
午後は日本大使館を訪問した。ここで対応して頂いたのはやはり?同窓の先輩と後輩。昔誰かに聞いたのだが、この大使館は基本的にモンゴル語学科の人ばかりが、モンゴル専門家として配置されるらしい。そういえば司馬遼太郎さんも大阪外大モンゴル語卒だったな、と急に思い出す。
3月の安倍総理訪問で、これまで進まなかった事案もスムーズになったと。また最近はモンゴル政府の閣僚に日本留学組が就任するようになり、益々日本の重要性は高まっている。但し経済の実態を見れば石炭など資源輸出の90%が中国向け、外国からの直接投資も見かけ上は中国から35%だが、オランダとルクセンブルグからの迂回投資を合わせると、こちらも80%以上が中国からとなり、中国頼みが顕在化。中国の景気減速で経済的に厳しい状況が出てきている。
ホテルの結婚式
大使館からホテルまでは近かったので歩いて帰る。途中にモンゴル文化教育大学という看板が見えた。日本語だ。Nさんによれば、『ここは日本に留学したモンゴル人が作った大学で創設者は知り合い』とのこと。残念ながら創設者はいなかったが、中を見学した。
この学校は日本の大学とも提携しており、日本人留学生も来ているようだ。この国に来て彼らは何を見ただろうか。ちょっと興味が湧く。片やモンゴル人学生が日本語を学んでいる。壁には『折り句』が張り出され、面白い。微笑ましいものから、かなりのレベルのものまで、自分の名前を使って作っている。
ホテルに戻ると玄関口に飾りが施され、結婚披露宴が行われようとしていた。実はほぼ毎日、このホテルでは披露宴が行われている。ホテルの建物がオシャレなのと、立地が良いからだろう。参加者も皆着飾っており、子供たちもはしゃぎまわっている。かなりの費用が掛かるだろうから、お金持ちの宴だと分かる。
中ではちょうど弦楽四重奏の演奏中だった。この辺が中国などとは違っている。洋風なのだ。夜もオペラを歌う参加者がいるなど、ロシア、ヨーロッパの影響を強く受けていることが分かる。恐らくはそちら方面に留学した人が多いのだろう。
それにしてもアジア各国、どこへ行っても派手な結婚式が行われている。これは一種のブームでもあり、また伝統的に祝祭を派手に行う習慣でもある。結婚式は一大ビジネスチャンスである。北京の知り合いが中国で日本式結婚式のアレンジビジネスをやっているが、これはやり方次第では日本的なきめ細やかな手法が受ける、日本的なおもてなしの輸出になるだろう。
私は基本的にバンコックにいる時は暇である。ある意味、暇が売り物、ともいえる。と言う訳で我が宿泊先からプロンポーンへ買い物に行くときは、スクンビッドの通りまで10分以上歩き、そこからバスに乗る。バンコックのバスの良い所は、時々無料バスが走っていること。タダで中心部に行ける、それは素晴らしい。
昨晩遅く、香港からバンコックへ戻ってきた。明日は市内で大規模なデモあり、主要道路が閉鎖されるそんな時に何故、との声もあったが、何しろ私の拠点はバンコック。ただ機械的に戻ってきた。ドムアン空港からモーチット行き、最終バスに何とか乗り、深夜のBTSで帰ってきた。BTSが12時過ぎても走っているのを初めて知った。バンコックも便利になったものだ。これなら時間はかかるが、料金は合計80バーツ。タクシーだと300バーツを超えるので、大分お得だった。
今日は明日に備えて買い物に出た。ちょうど無料バスが来て縁起もよい。バスは混んでいたが、私の横の席が空いた。すると向こう側の女性が私の機先を制して、座ってしまった。こんなことは度々ある。日本では考えられない「横取り」である。タイの社会は女性が優先されているのだろうか、さも当然という感じで女性が席を取る光景がよくみられる。
だがその横取り女性は後ろに立っていたお婆さんにすぐに席を譲った。年寄りは大切にするんだな、と微笑ましく見ていると、また空いた席を彼女が横取りした。しかしその席の前に立っていたのは、老人男性。老人は座ろうとしていたにもかかわらず、彼女は全く席を譲ろうとはしなかった。しかも向かい側の席が空き、男性が老人に席を譲ろうとすると別の女性がその席に座ってしまったではないか。なんでこうなるんだろう。男性は老人でも席を譲られないのか?
タイの女性は確かにたくましい。それは女性が優先される社会ではなく、むしろ優先されないので、このような行動に出るのではないか、とも思ってしまう。そういう思いで見ていると、確かにバスの運転は荒く、立っているとコケル心配すらある。体力的に余裕のある男性が立っているという不文律があるのかもしれない。因みの子供の席を譲る人が多いのもその理由からかもしれない。
最初に横取りした女性は自分が下りる時になって初めて、老人に席を譲った。老人は笑顔で腰を下ろした。それがタイ社会なのだろう。我々には不可解なタイ、明日のデモはどうなるのだろうか?
日本留学経験者の本音
もうお昼近くなってしまったが、我々を待ってくれている人たちがいた。過去に日本に留学して、今はUBに戻ってきている元留学生たち。現在就活中の人、日本関係の仕事をしている人など。とても面白話を聞くことが出来た。
先ずは日本の印象。『とても安全』『時間の管理がしっかりしている』『日本人のチームワークは素晴らしい、モンゴル人は一人ずつしか行動できない』という肯定的な面も出たが、『留学するコストが高すぎる』『日本人学生の勉強の対する意識が低すぎる』と言った先生たちが頭を抱える問題点も指摘された。これを話した人は理科系で修士まで進んだが、『日本人学生のレベルはあまりに低くて競争相手がいなかった』と嘆いていた。
『モンゴルに戻ってから日本人と交流する機会がない』のでもっとモンゴルに日本人留学生を派遣してほしい、との要望もあった。確かにモンゴルを目指す留学生は多くはない。日本企業もあまり進出していない。日本人の視野がどんどん狭くなっていていることを指摘された。『我々は本当に日本に好印象を持っているし、モンゴル人は一般的に日本が好きなのでとても残念』とは本音であろう。
そして話は就職の方へ向かう。『日本語では就職できない』は前述の通りだが、特に理工系は『専門用語を全て日本語で学んでしまったので技術があっても欧米系の会社では役に立たない。モンゴル人の同僚とすら話が出来ない』といった何とも残念な話も出た。また『日本企業に就職しても直ぐには役職が上がらない。人口の少ないモンゴルなら海外留学生はもっと尊重されている』といい、『自分で起業するしか道はない』と日本での就職を諦めた話も披露された。
『将来は日本人とチームを組んでビジネスをやってみたい』という積極的な意見も出てきた。モンゴル人との積極性と日本人のチームワークをうまく融合して事業を成功させようという考えだ。『モンゴルは中国とロシアに挟まれている。日本との友好が非常に大切だ』と言った国の将来を対局から見る発言もあった。やはりそれ何の意識をもって留学すれば物の見方も大きく変わるのだろう。日本の学生にも期待したい。
8月22日(木)
日本語だけでは金にならない
翌日はN教授の大学が以前より交流のあるモンゴルの大学へ行った。モンゴル人学生は海外留学に行く者が非常に多く、この大学でもロシア、中国など海外の60の大学と協定を結んで、留学生を送り出していた。日本でも数校と提携を始めていた。ただ震災後、それまで留学していたモンゴル人が国に戻ってしまうなど、少し後遺症があるようだった。
今回驚いたのは、海外の大学と折衝する担当者が、どう見ても日本人にしか見えないモンゴル女性だったこと。その日本語もほぼ完ぺきであり、化粧の仕方まで日本人だった。聞けば、日本に留学、その後日本の大学で働いていたらしい。15年ぶりに戻ってきたという。更に彼女は高校時代、内モンゴルに留学しており、中国語も普通の話せ、英語もできるらしい。このような有為な人材は祖国モンゴルの成長とともに帰国し、尽力し始めている。
この大学は教育者を養成する学校だったが、『教育はお金にならないので教師志望が減少している』という。政府も教員給与アップを図り対応している。日本語を勉強する人は多いのだが、その就職問題がある。『日本語を学ぶ人は全員教師になるしかない』との言葉は重い。現在多言語教育も行われ、また日本語学科以外の人が日本へ留学するなど、日本語オンリーからの脱却も図られている。
この大学で学ぶ学生が選ぶ外国語の1位は中国語、次の英語、ロシア語と続く。中国嫌いのモンゴルだが、経済的、就職に有利という意味では断然中国が選ばれている。学部長にお会いしたら、中国語の先生だった。『私が中国に留学した90年代、中国語はマイナー語学だった。私も仕方なく留学に行った』とのこと。
その日の夜のテレビで『日本の高専に留学生を1000人送る』と教育大臣が発言していて驚いた。この大臣も日本留学組であり、『日本の高専はレベルの高い技術が学べる』として、日本を技術者養成の場としたい意向だった。3月の安倍総理モンゴル単独訪問以降、日本との関係は非常にスムーズになっている。その後訪れた日本大使館でも『総理訪問後、モンゴル側の対日姿勢は非常に良くなっている』とのことだった。総理は一体何を話したのだろうか。興味深い所である。
今日は前から気になっていたMega Bangnaへ。この巨大ショッピングモール、毎回空港を往復する度に必ず目に入るが、実際に行ってみたことはなかった。そう遠くはないと言いながら、それなりに遠いのである。ところがあるところから、『無料のシャトルバスがある』と聞き、乗ってみることに。
この無料のシャトルバスに乗る場所はBTSウドムスック駅。平日にもかかわらず沢山の人が待っているなと思ったが、実は普通の路線バスに乗る人が大半。バンナ―トラッド、スワナンプーン空港へ行く人はBTSをここで降り、乗り換える。なかなか来ないなと待っているとようやく無料バスの表示が。結構な人が乗り込んだ。休日なら満員なのだろう。30分に一本ペースらしい。
15分ぐらいで巨大な看板が見えてきた。IKEAやユニクロが浮かんでいる。バスはBig CとIKEAの2か所に停まる。最初のBig Cでほぼ全員が降りる。スーパーのBig C、デパートのロビンソンが並列に入っている。物凄くデカい。そしてシネコンに、巨大なフードコート。周回道路のように円を描いて、歩いて行くと、全てが何らかのショップ。有名ブランドが多い。歩くのも大変。
ちょうどレストラン街があったのでお昼を食べることに。焼肉やしゃぶしゃぶの食べ放題の店もいくつかあったが、昼はガラガラ。フードコートも混んでいない。マックやケンタッキーは常にそこそこの人がいる。そして吉野家があり、八番らーめん、フジ、MK、定番が並ぶ。その中にカレーのココイチがあったので入ってみる。バンコックでは初めて入る。ロースカツカレーが160バーツ。水は20バーツ。決して安くはないが、それなりに人が入っている。高校生の集団も食べている。タイ人は日本のカレーが好きなんだろうか。福神漬けを取り出して、そのまま食べている人がいた。
食後はIKEAに。ここに入るのは香港の店以来、恐らく10数年ぶり。それにしても広すぎる。迷子必至。当然矢印や地図がそこここにあるが、それでも分からない。店内にはレストランもあり、大勢の人が休んでいる。広いだけあって、この辺は行き届いている、というか、これも営業の一環?
フロアー各所に部屋が再現され、家具屋ベッドの配置などモデルプランが提示されている。タイ人は何となく机やベッドを買うのではなく、コーディネートされたモデルを買うのだろうか。それとも一つずつ自分で考えるのだろうか。そんなことを考えていると頭が痛くなる。商品が多過ぎるのだ。この広い空間から自分に必要な物を探し出し、レジまで持って行き、そして家まで持って帰る。考えただけでも嫌になってしまった。人間はどうしてそんなに物が必要なのだろうか。周囲の家具に押しつぶされそうな自分に気が付く。逃げ出したいが出口は遠い。
家具や雑貨に囲まれて考えた。とにかく物を買うのはやめよう。部屋に置くのも面倒だし、捨てるのも面倒だ。もう人生は折り返しを過ぎているはず。これからは物を貯め込むのではなく、どんどん捨てていく。身軽が一番、身に染みた。
IKEAを出るとそこにもう1つのバス停が。ウドムスックでは20分以上立って待っていたが、今度はちゃんと座るところがある。座ると気づく。そこにもIKEAの値札が付いている。IKEAは商売として普通の行為をしている。いや、よく気が付いて、上手い商売をしているように思える。だが、何かが引っかかってしまう。結局ランチを食べた以外は1バーツも使わず往復した。いい運動、というより、頭の整理にちょうど良かった。
中国料理屋
予定が中途半端に終わったので、また昼飯兼夕飯を食べに行く。UBに戻る途中、N教授は目ざとく中国料理屋を見つけていた。そこに入る。普通海外でも中国料理屋といえば、派手な感じの看板を掲げ、それらしい雰囲気を出すものだが、ここモンゴルには漢字の看板は存在しない。モンゴル人の対中感情に極度に配慮しているらしい。
建物の中へ入ると、実に立派なレストランで、漢字で『龍府』と書かれていた。メニューを見ると、中国国内にある内容とほぼ同じで本格的な中国料理屋さんだ。これなら中国語も通じるかと思い、ウエートレスに話しかけると、恥ずかしそうに手を振る。青島ビールを飲み、『乾鍋菜花』『爆炒腰花』『水煮肉』など、味も中国と同じで、美味しく頂いた。隣では中国人が数人で宴会、白酒をあおっている。
オーダーした物と違うものが出てきた。それも3回も。1つ目はあっさりと皿を下げたが、2つ目の間違いでは彼女は困ったように止まってしまった。我々はそのオーダー違いの皿を受け取った。彼女はとても喜ばしそうな顔をした。聞けばレストランで働き始めて1週間、中国料理など食べたこともなく、間違ってしまうこともあるらしい。だが何度も間違えると首になる恐れがあり、ビクビクしている。中国系レストランで働いてくれるモンゴル人は多くはないはずだから、それでもここで働くにはそれなりの理由があるのだろう。
そして本当に腹一杯になり、渋滞の市内を以前泊まっていたホテルに再びチェックインした。シャワーでも浴びようかと思ったが、全くお湯が出ない。フロントへ行くと何と『明日の午後8時までお湯は出ません』と言われる。それなりのホテルなのにどうしてと聞くと、『この付近一帯全て出ません。UBのお湯の供給は中央システムが担っており、冬に備えて夏の間にメンテナンスするんです』と答えられて驚く。
冬の寒いモンゴルでは統合暖房が敷かれているのだろう。それを使ってお湯を供給している、何とも社会主義国家のようだ。だがこの話をその後モンゴル人にすると『我が家は既に20日間お湯が出ていない』などと平気な顔で言われてしまう。我々のホテル、結局翌日はダメだったが、2日後の午前中には何の連絡もなく復旧していた。感謝せねば。
8月21日(水)
5.ウランバートル2
ダルハンからナラハへ
朝、ダルハンを出発。郊外に出ると先日訪問した製鉄所を示す不思議なモニュメントが見える。何となくユーモラス。あの工場長さんを思い出す。それからひたすらUBに向かって進む。
途中休憩した場所には、何かが祭られていた。広い広い草原の中に、ポツンとある石。これは何を意味するのだろうか。昔は道路などなかったはずだから、何かの目印にもなっているように見える。羊が群れを成して過ぎ去っていく。ああ、モンゴル草原だ。
そしてUBに到着したが、大渋滞。ここでランチを食べるはずが、そのまま午後の訪問先であるナラハ区へ進む。あまりの渋滞に後続車を見失い、ガソリンスタンドで待つ。ナラハはUBの南約30㎞。UB市内を1時間以上かけて突き抜けるとまた草原だ。花が咲いている。可憐だ。腹が減った。4年前もナラハから戻るとき、昼飯がなかったことを突然思い出す。そろそろモンゴルに飽きてきたのかも知れない。
ナラハ区庁
ナラハの街は4年前と変わっていないように見えた。昔の炭鉱の街、ソ連崩壊後経済的に行き詰まり、現在再開発の計画のあるところ、という印象だったが、再開発はどうしたのだろうか。
区庁に入ると、少しも変っていない。再開発計画の模型もそのまま置かれている。大きな部屋に何人もの区の幹部がやってきた。最近の事情を聴くのになぜこんなに人が来るのだろうか。代表者が『区長はUBに行っており、今ナラハに向かっている。皆さんの質問に応えるべく、関係者を集めた』と。
女性幹部が区の労働事情を説明し始めた。既に公式の炭鉱は閉鎖されているが、未だに勝手に個人で掘っている人々がいる。危険なので取り締まりたいが、彼らに職がないので困っている。実はこの区は長い炭鉱の歴史もあり、モンゴルで障害者が一番多い。それでも炭鉱労働者の子孫は炭鉱を離れないが、それ以外の若者はUBへ行ってしまい、帰っては来ない。
現在区を市に変更するという計画がある。ただここには発電所がなく、電力問題があり、独立できないでいる。発電所建設は悲願だが、環境問題で財政問題がある。政府に支援が期待できるかどうか。
明らかに4年前の再開発計画とは異なっていた。以前は韓国系企業が開発を請け負うという話だったが。その計画について尋ねると、皆が一斉に話し出す。『今日は労働者問題の話ではなかったのか』『わざわざ夏休み中を参加したのに、なんでそんな話をするの』何だか様子がおかしい。そして代表者が唐突に『会議はこれで打ち切る』と宣言し、退場した。
聞く所に寄れば、韓国系企業は2009年3月の段階でほぼ撤退(夜逃げ同然?)しており、それはこの区にとって大きな打撃だった。昔の嫌な話を蒸し返されるのは気分が悪いし、中には責任を問われている人もいるのではないか、とのことであった。発展には様々な要素が絡んでくる。なかなか発展できない街、その一端を垣間見た。
引き籠り生活を終了したが、どうやら体力が弱っているらしい。それに出不精、怠け癖まで付いてしまった。ちょっと近所を散策しようと思っていると、DACOというフリーペーパーにちょうど『クイッティアオ(タイの麺)』特集があり、その中に近所の店が紹介されていたので、行って見ることに。近所とはいっても、歩けば30分以上かかる距離。これまではそこまで歩いて行けたのだが、どうも調子が出ない。仕方なくスクンビットでバスに乗る。と言っても時々走っている無料バス、そして5分程度で降りる。これは歩くのが嫌いなタイ人方式かな。
BTSバンチャック駅のすぐ脇にその店はあった。入口の看板には漢字で『丁大財発』と書かれており、華人系だと分かる。DACOによれば、中華街で100年以上麵屋をやっていた3代目が分家してこの駅から少し離れた場所に店を構えている。駅前の店はその息子(4代目)が更に独立して作った店とか。それでも24年経っているらしい。
時間が早かったせいかお客さんは地元の数人のみ。入口の所にいた若い女性は華人系の顔をしており、他の従業員に比べて肌の色が白かった。とても愛想がよい。ここのお嬢さんか?中国語を使ってみたが、反応せず、身振りで注文。
私は太麺(センヤイ)がきしめんのようで大好き。ルークチン(つみれ)と雲吞、野菜を入れてももらう。麺は実にもちもちしており、好みだった。ルークチンの触感も抜群、雲吞に入っている餡も味が効いている。全てに手作り感が漂っていた。麺の量が多かったせいかこれで十分満足。帰りがけにはオーナーと思われるおじさんが登場。娘の代わりに英語で『67バーツ』と。今度はこの奥に方にあるという3代目の店にも行ってみよう。
帰りもバスに乗ろうと道の反対側へ行くと市場があり、そこでバナナとみかんを買う。なんかこの辺も中華系の匂いがする。漢字の看板がちらほら。バスを待っていると、後ろの店が肉まんを蒸かしていたので、買ってみた。餡がぎっしり入っており、華人向けの肉まんだと分かる。8バーツ。
バンチャックという名前はどこから来たのだろうか。BTSの駅は僅か2年前に延長されてできたばかり。この辺りと華人の関係、調べてみたいがどうすればよいだろうか。バンコックにはまだまだ分からないことが沢山ある。