国営体質のホテル
午後2時過ぎにホテルに戻る。これまで2日間はランチがなかった。色々とアポをアレンジしてくれ、食事をする暇がなかったのだ。中国では間違ってもこのようなことはなく、もし昼を食べさせなければ、文句が出るだろう。国民性の違いか。ホテルのレストランで羊スープの麺を食べる。意外とおいしい。
その後ホテルのマネージャーに話を聞いた。このホテルは旧国営の古い体質、彼女は大学院で経営を勉強して、ここに人事部長として、1か月前にやってきたばかりだった。彼女は昨日訪問したセメント会社でも働いた経験があったのは、世間が狭い証拠か。
このホテル、部屋が古いのは仕方がないが、インターネットの高速化を進めるなど、ハード面では改善策を講じていた。だがソフト面、特に従業員の確保、教育には苦労していた。レストランのウエートレスは殆どがバイトの学生。現代的なサービスをしようにも人材はいない。また従来からいる従業員の意識改革も進めなければならない。『サービス』という意識もなく、『責任感』もない。これら国営体質の打破が彼女に与えられた任務。人事制度改革と研修、彼女の2大目標だ。
日本を評価するパン屋さん
そして夕方、もう1軒訪問した。パン工場、1971年設立。ソ連の支援を受けてパンを製造。90年代は原料の小麦の調達にも苦労するなど厳しい状況が続いていたが、2000年頃民営化。05年には株式会社化し、経営陣を全て入れ替え、国営体質を一掃。4年後にはモンゴルトップ150企業に入るほど成長した。現在ダルハンを中心に、15台のトラックで毎日スーパーなどにパンや菓子を卸している。
ミーティングの間に出されたクッキーがとても美味しかった。オランダから技師を招いて、パンやクッキー製造に当たっている。これなら海外に出しても売れるのではないかと思う商品まである。生クリームをパンにつけて食べると、得も言われぬ美味しさ。全員が日本への輸出を進めたが、『日本は検査が厳しい』と。
何とモンゴル国内でも、現在ダルハン、セレンゲ、ユルデネットの3県のみで販売しているという。相当慎重な経営方針のようで、『現在UBへの進出を検討しているが、まだ自信がない』とか。支払いは現金、借金もない。優良会社だ。
社長は日本モンゴルセンターの研修を受け、日本への視察にも行ったという。日本の5Sなど管理手法も採用、会社の規律も日本から導入した。営業部長は『日本のお蔭で弊社はここまでになった』と非常に親切で、夕方日が落ちる頃まで延々と質問に答えてくれた。日本の良さを理解してくれるモンゴル企業、大切にしたい。
因みに大きな夕日が落ちる中、ホテル近くのスーパーへ行った。食品売り場にはさっきのパン屋さんのパン専用コーナーがあり、お客がどんどんパンを買っていた。
翠峰茶園
チェンライ空港出口に参加者が集合し、チャーターしていた車に乗り込む。今回は全てMさんがアレンジしてくれたので快適。天気は雨期にもかかわらず快晴で気持ちが良い。水田風景などを見て思わず『バンコックの喧騒が嘘のよう』との言葉が飛び出す。本当にのどかな田舎の風景にうっとり。
途中まではメーサイへ行く道を進む。メーサイへ着けば川の向こうはミャンマーだ。ミャンマーへの思いが頭をもたげた頃、車は山道へ入り、坂を上り始めた。それから程なく、今日の最初の目的地、翠峰茶園の茶畑と工場が見えてきた。茶畑では茶摘みがまさに行われており、思わず車を降りて歩き出す。この気持ちの良さは茶畑を歩いた人にしか分からない。茶畑の中に躍り込む。茶摘みをしているのはアカ族の女性たち。比較的年配者が多いが、中には赤ちゃんを負ぶって作業をしている者もいる。カメラを向ける赤ちゃんがにっこり。
茶工場まで1㎞以上歩いただろうか。向こうには大きな墓も見える。この茶園の創業者は2年前に亡くなっており、茶園が見渡せる場所に葬られている。茶樹は比較的若い。この茶園は第2工場建設とともに2005年頃出来たもので、茶樹は5年程度のものが主流。道の反対側には枯れかけた茶樹もあり、どうやらこちらは茶飲料専用に機械摘みする茶畑らしい。海抜は500m程度でそれほど高くはない。
工場では2代目の経営者が待っていた。彼は35歳前後、2人の兄がいながら、この茶園を継いだ。朴訥としたその様子は好感が持てる。工場脇は喫茶コーナーになっており、茶畑を眺めながら茶が飲める。何ともよい風が吹く、好ましい場所だ。お茶だけではなく、茶葉の入った揚げ春巻きやケーキなども出てきた。時間は11時前だがランチの状況になった。
この会社は1977年創業、華人の経営。軟枝烏龍、金宣などを主に作っている。今回のコーディネーターであるMさんの関連先だ。技術は台湾から、商品は主に台湾へ輸出しているが、最近はタイ人も茶を飲むことから国内需要も増えているという。
2代目は『これからは量の拡大は目指さずに、質の向上に努めたい。同時に海外にある観光茶園をモデルに観光客の取り込むに力を入れたい』とし、6‐7か月前に試験的に始めたこの喫茶店を、もっと本格的なスペースとすべく、設計中だという。確かに我々がいる間にタイ人を中心に欧米人などの観光客が何組もここを訪れ、記念写真を撮り、茶を飲み、茶葉を買っていた。Tシャツなど関連グッズの販売も行っている。
日本の静岡、韓国のチェジュ島などを参考にして、観光茶園を作っていくという。2009年に静岡で開かれた博覧会で金宣烏龍が金賞を得た際も、静岡の観光茶園を視察している。また2代目の義兄(姉の婿)は韓国人であり、そのルートからチェジュの視察などもしたようだ。ここは海抜も低く、観光客が来やすい場所であり、的確な戦略のように思う。
工場では摘んだ茶葉が外で干されていたが、まだ本格的な茶作りは始まっていなかった。従業員は工場100人、茶摘み100人、最低賃金はここまでは届いていないようだ。茶畑を覗くと、手で摘んでいる部分と機械ですべて摘み取られた部分があることが分かる。ペット飲料向けの茶葉供給も活発のようだ。
韓国レストラン
当初言われていたほど、羊肉は出て来なかった。これもある意味、食生活の変化、多様化だろうか。それでもさすがに地元料理に飽きてきた。するとNさんがあっちに『ブルゴギファミリーがあります』という。何だそれ、と思っていると、何と韓国料理屋だった。よくぞこんなところに韓国料理がと思ったが、結構な人気店。お客は常にいたからすごい。
早速ビビンバを注文。キムチ、野菜などの小皿は頼まなくても出て来る。これは本当にありがたい。スープもあっさりしている。周りのテーブルでは皆カルビやロースを焼いている。羊から牛へ、確かに昨日行った牛肉加工業者は成功だろう。所得が上がり、食文化が変化する、モンゴルは今そのような時代を迎えている。
それにしても『困った時の中国料理』という話は旅の中でよく出て来るが、これからは韓国料理かもしれない。アジア全土、そしておそらくアフリカなどにも韓国人は果敢に進出しているに違いない。日本料理は、今後日本人以外が店を展開していくだろう。
8月20日(火)
国営工場のその後
翌日も企業訪問を続けた。元国営の皮工場。チェコの支援で毛皮のコートなどを作っていたが、1993年に民営化。しかし96年には操業ストップに。2000年に経営陣を刷新し、株式会社へ。ある意味、典型的な国営企業の変遷。その後上場している。日本人でも株を持っている人がいるという。
国営時代の概念を取り払い、デザインを一新し、営業にも力を入れた。国内販売のみならず、牛の半製品をスペインやイタリアに輸出しているとか。とても愛想のよい営業責任者の女性が一生懸命説明してくれた。
その後食肉加工工場へ。ラクダ以外の全ての家畜を扱っている。工場、オフィス共にとてもきれい。衛生には特に気を付けており、『遊牧民の伝統的な衛生概念を変えたい』という思いが感じられる。ここでは生の肉から、ソーセージ・ハムの加工、またボーズと呼ばれる肉まんの冷凍食品なども製造している。
ここの社長は90年代元々UBで有名な食品市場を立ち上げ成功した三兄弟の一人。兄が急死し、ダルハンの元国営工場を買収し、食品会社を経営するようになった。設備などを一新し、何とか軌道に乗ってきた。と言っても買収金額が少なく、既に企業価値は相当上がっているようで、投資は成功したという。
非常に有能な経営者と思われ、話もテキパキしている。中国に生肉を輸出したいが認可されない。何とか食習慣が近い内モンゴル市場へ食い込みたい、日本に馬肉を輸出したいなど、次々に新しい発想を持ち、実現させていくようだ。
昨年12月25日にパルモ師の話を聞いてから、バンコックの宿泊先でほぼ引き籠り生活に入った。やはりパルモ師の言葉は重かった。ブログを更新し、本を読み、簡単な食事を作って食べる、そして少しものを考える。本来私が求めていた規則正しい生活パターンが出来たような気がする。
31日から3日まではバンコック市内のホテルに籠る。日本で正月を過ごすことを辞めた私、今回はバンコックで日本の正月気分を味わおうという嗜好。私の正月にはおせち料理や雑煮もあるが、何といっても3が日は駅伝。今回は日本のNHK及び民放が全て映るホテルを選択し、毎日朝から晩までテレビを見続けた。
大晦日、紅白を久しぶりに見た。進化している郷ひろみ(韓国人が作った新曲を歌う)と昔の名前で出ている細川たかし、石川さゆりなどが対照的で面白い。きっとヒット曲が今年出ていなくても『年の暮れは石川さゆりを見て終わりたい』という人もいるのだろう。確かにこのままヒット曲だけ集めていたら、ジャニーズとAKB、EXILEで終わってしまいそうだ。
また『あまちゃん』完結編を紅白の舞台でやってしまう演出、NHKも進化したかな。GMTが紅白の舞台で歌う、それはゆいちゃん以上に夢の実現。でも出場歌手に載っていない人たちがどんどん歌っちゃうと、『紅白出場』の意味が薄れてしまうのでは。民法の裏番組、かなり意識したんじゃないか?
まあ北島三郎は仕方ないにしても、例えばAKB大島優子の卒業宣言などは正直・・・。ファンにとっては重要かもしれないが、それを紅白でやらなくても・・と思ってしまう。宣言した後の曲を聴きながら、この演出は今一つと思わざるを得なかった。
そして今回の紅白の真のヒロインは綾瀬はるか。最初から最後まであれだけ視聴者、出演者をハラハラさせ続けた司会者はいなかっただろう。もしあれが演技なら最高だし、もしあれが自然なものなら『視聴者は既存の番組には飽き飽きしている、これからは本当に緊張感のある番組が見たい』というメッセージになったであろう。
元旦は全日本実業団駅伝。コニカミノルタが連覇。予想外だったのが、エース宇賀地の4区を繋ぎ区間と位置づけ、5区と6区で優勝を決めたこと。日清の佐藤悠基も最後に失速するなど、マラソン・トラックレースと駅伝の両方をこなさなければならない代表ランナーたちの苦悩、そして勝つためには『有名選手がいかに繋いで』残りの選手層を厚く出来るか、なのだろう。
2日、3日の箱根駅伝。途中から東洋大の独走だった。不思議なくらい箱根で勝てない駒沢。やはり『箱根駅伝は陸上競技ではない』のかもしれない。緊張の1区、5区、6区の山の上り下りで大勢が決まる展開は、正直飽きがきている。それでも1区早稲田の主将大迫が『駅伝よりも世界を目指す』とばかりにチームを離れて海外遠征。結果チームのつなぎ役になったのは、大きな変化。宇賀地同様、『チームより個人』『駅伝より世界』を見せてくれたのかも。それを許容するチーム、監督にもようやく変化の兆しが。
それより、今年がワールドカップイヤーということで、NHKBSで過去の日本チームの試合を全て放送していたが、これは見ごたえがあった。結果を知っていてもまた見てしまう。予選を突破する時は、やはり何かが違う。特に守備だろうか。フォワードも含めた全員がいい守備をしている。そして日韓の宮本、前回の中澤、読みが素晴らしい。結局守備が安定しない限り、世界では勝てない、ということなのだろう。今回はどうなることか。
そういえば今年は冬のオリンピックもある。こちらもNHKBSで過去映像を見た。モーグルの上村愛子は18歳の長野で、既にあれだけの技量を持っていたのかと感心。でもメダルには手が届かない、それが人生だ、などと言ってよいのだろうか。
ソチは色々ときな臭い。オリンピックが無事に開催されることを祈ろう。バンコックのデモも早く収束してほしいが、それは無理な相談か。
4.ダルハン
ヘビーな食事
ダルハンはモンゴル第二の都市。だがUBと比べるとかなり小さいようだ。ホテルに着き、すぐに食事へ。昼と夜の中間食、何というのだろうか。3時過ぎたこんな時間でも食事している人がいた。面白い。その人たちがスパゲッティを食べていたので頼む。すると出てきたのはものすごい量。スープもサラダもすべて大きい。とても食べきれない。満腹になる。
レストランを出て水などの買い出しに行く。そこから歩いて帰ることにした。何しろ腹が重い。少しでも減らさねば、と思ったが無駄なようだ。歩いていると建設現場が見えてくる。第二の都市もやはり建設ラッシュ。『誰が投資しているんですかね』と地元の人に聞くと『朝青龍じゃないの?』と笑われた。
結局その夜は何も食べずに寝ることに。ところがなぜかホテルの外で深夜までウルサイ音楽を流して何かしている。若者が騒いでいるのかと思ったが、どうやらBBQか何かの野外営業らしい。そんなに遅くまでお客がいるとは思えず、もっと早く止めて欲しかった。何しろこちらは腹一杯で、それでなくても寝付けないのだから。
8月19日(月)
中国に圧迫されるモンゴル企業
翌朝はダルハン県庁を訪問、県知事と面談した。さすが第二都市の首長、忙しいそうだ。面談中に大統領から直接電話が入るなど、これからのモンゴルを背負う指導者の一人なのだろう。
それから突然製鉄所に向かう。こんなところに製鉄所があるのか。何と日本のODAで作られたらしい。さすがに大規模な工場、入るのにチェックが厳しい。1993年に生産を開始、2003年にODA支援が終了。それ以降は自力で生産している。現在従業員は1600人余り。モンゴルとしては大きい。
説明してくれた工場長は生産開始から今日まで、この工場の全てを知っていた。恐らくモンゴルでもっとも製鉄に詳しい人なのだろう。その苦労、苦悩が話の随所に表れていた。『もうすぐ定年です』という言葉が妙に重い。
工場見学もさせてもらった。熱い鉄が流れてくる。26年前、上海留学中に宝山製鉄所を見学した日を思い出す。日本の技術がアジアで使われている素晴らしい光景だった。これからは一層技術革新がなされていくだろう。原料となる資源はモンゴルにあるのだから。ただ中国から安い鋼材が入ってくる。この競争に打ち勝たないと、企業はやっていけない。
財閥系セメント工場にも行った。ここの責任者若く、英語を話した。シンガポール留学中にスカウトされ、シンガポール企業のモスクワ事務所で働いた。最近戻ってきてここにいると。中国より安いセメントがどんどん入ってきて、価格競争が起こり、厳しい状況だ。グループ企業ですら、安い方から買っている。
中国系企業はセメントを前渡し、代金は6か月後でよい、といったファイナンス付で市場をかく乱している。『中国から圧迫されるモンゴル』という図式が見えてきた。価格競争では大量生産の力に負け、付加価値の高い製品作りには技術が伴わない。中国経済が減速していくと、更に中国企業からの圧力が強まりそうだ。
《メーサローン茶園ツアー2013》 2013年9月16日-17日
バンコックで茶会を開いて1年、この会の目的は元々が『タイでもお茶が作られており、その品質も年々向上している』ことをバンコック在住者に知らせることにあった。取り敢えず日本人在住者向けに始めて見ると、思いの外、毎回参加者が集まり盛況になって行った。
それではタイの茶畑に行こうと、茶会主催者のMさんが茶園ツアーを企画したところ、4名の参加者があり、メーサローンへ行くことが決まった。但し早朝バンコックを出て夜遅くバンコックに戻る日帰り弾丸ツアー。エアアジア就航のお蔭で実現したが、あまりに忙しないので、私はメーサローンに1泊することにした。
9月16日(月)
1. チェンライまで
先週のプーケットの旅で懲りた。宿泊先からドムアン空港に行くのがことのほか、不便であることを認識。今回は出発時間が午前7時55分であり、万全を期して5時に起き、6時前には家を出た。前回は全く捕まらなかったタクシー、今回も早過ぎたのか、やはり捕まらない。仕方なくスクンビットまで出ようと歩き出す。途中で空車が見つかり乗車。今回は渋滞前の時間帯でスムーズに進む。だが結局高速道路を使い、料金はスワナンプーンへ行くより、高くなる。高速料金もいつの間にか値上げになっている。
空港には6時25分には着いてしまった。ノックエアーなら空港内でWIFIが使えるのだが、エアアジアにはそんなものはない。それでもスムーズに搭乗し、定刻には出発して、定刻にチェンライ空港に着いた。中国などでは飛行機の遅れが目立つ中、これは快適だった。勿論機内では熟睡。1か月前の予約で、僅か片道700バーツの飛行機代は本当に安い。
パンクしたのでゲル突撃訪問
モンゴル第二の都市ダルハンへ向け出発した。だがすぐに大きな競技場が目に入り、停まる。何とモンゴル相撲の競技場だという。それにしても大きい。競技場の前にはモンゴル相撲の王者の像が輝いている。さすがモンゴル。
そして車は順調に走っていたが、何と我々が乗ったランクルのタイヤがパンクした。いつ治るんだろうか、と心配してみていると、全く心配していないばかりか、むしろこれを喜んでいるN教授がいた。『向こうにゲルが見えるぞ。突撃しよう!』と歩き出す。皆半信半疑で付いて行く。1.5㎞ぐらいあったろうか、草原を突っ切りゲルに到着した。
ゲルでは我々を快く迎えてくれた。これは草原の掟らしい。来る者は歓迎すると。早々に中に招き入れられ、お茶が出される。このお茶が美味い。ヤクの新鮮なミルクで作っているらしい。驚くことには、このゲルの中にはテレビもあり、PCもある。実は裏に衛星アンテナがあり、何十局ものテレビ番組を見ることもできる。勿論携帯もあり、移動も最近は車でする。我々が思っているゲル生活より遥かに現代的だった。
『息子と娘はUBの大学へ行って先生になった』とも。ここにやってくる時は2人ともランドクルーザーだとか。長男が後継者として残っているが、『昔は草原で嫁が見付かったが、今は街に行かなければ見つからない。このゲルを継いで行けるかは分からないし、継げなくても仕方がない』と諦め顔で話す。このゲルの主人は遠くから我々が来るのを見ていたという。馬に乗って戻ってきた。さすが草原に生きる人だ。
パンクしたのは偶然ではないのだろう。こうして人と人は繋がり、そして別れる。これが草原の掟、だと思う。馬で戻りたかったが、パンクを直した車がそこまで迎えに来ていた。今は馬から車の時代になったのだろうか。
9月11日(水)
キャパオーバーの空港
翌朝はカサブランカでゆっくり過ごす。今日も雨。外に出るのも億劫だ。ジョジによれば『空港までバスが出ている』というので、ホテル近くのバスターミナルまで行く。バスは1₋2時間に一本しかない。80bなら仕方がないか、観光客が乗るというよりは路線バスだ。
バスに乗る人は少ない。空港職員と、余程金のない?時間に余裕がある人だけが乗っている。バスはゆっくり進み、途中で多少乗り降りがある。1時間20分ほど掛かって空港へ到着。
ノックエアーのカウンターは空いていて、すぐにチャックインできた。だが空港内、特に出発を待つゲート付近は異常なほど込み合っていた。皆待ちくたびれて床に座り込んでいる。さては何か遅延が起こっているなと勝手に思ったのだが、そうではなく、空港のキャパが一杯だということが分かる。
元々観光地として有名なプーケット。欧米人や日本人に加え、最近は中国人、韓国人、ロシア人などが大挙して押し寄せてきている。昨日のパトンビーチでもこれらの人が非常に多かった。エアアジアやノックエアーなど、LCCが乗り入れ、益々便利になってきている。だが空港は18年前と変わっていない。現在は雨期で繁忙期ではない。それでこの状態であれば、クリスマスや正月などはどうなるのだろうか。通路まで人が溢れているのだろう。空港の横で何か工事が行われていたが、新たなターミナルでも作っているのだろうか。
ノックエアーは何事もなく、バンコックへ戻った。ドムアン空港の最大の問題はLCC空港なのに、市内までのアクセスがタクシーしかなかったことだが、今回降りてみると、何とモーチット行きのバスが出ていた。30b。これは便利なうえ、速い。15分でモーチットに着いてしまった。世の中は進化している。プーケットも進化するだろうか。
カラオケBBQ
ホテルに戻る。ちょっと疲れた。蜂蜜ウオッカが効いたのかもしれない。少し横になる。そしてまだ明るい内に、レストランに向かう。今日はセレンゲ夜の最終日、初日にゲルBBQを開いてくれた社長などを招き、あのBBQ名人の夫妻が経営するレストランで、カラオケパーティーを当方主催で行う。
既に食事の用意はできていたが、また羊ではなく、鶏肉などが中心。結局今回は羊を食べる機会が殆どなかった。それもまた皆さんの配慮の結果だろう。参加者が集まってきて、何となく会が始まる。そして何となく芸が披露される。社長の4歳のお嬢さんが幼稚園で覚えた踊りを披露、N教授とA教授がお返しに、子供向け踊りを披露。芸域の広さが際立つ。そういえばモンゴルでは幼稚園が不足しているそうだ。数だけでなくノウハウも欲しいという。日本の幼稚園を参考にしたいとの話。こういう交流もあるのか。
その後はカラオケ大会に。今や地球のどこに居てもカラオケが出来る。衛星カラオケ、日本語の歌がモンゴルとロシアの国境で歌えるなんて、凄い。BBQ屋の奥さんは日本語の歌が上手い。きっと日本で仕事している時に、カラオケに行って覚えたのだろう。その旦那はモンゴル語で歌い、そして強烈に踊る。娘さんは現在大阪日本語学校に通っており、一時帰国中。若い歌声が響く。そして運転手君も横須賀仕込みの歌を。何と吉幾三の『酒よ』だ。みんな、歌が上手い。
3時間ぐらい、歌っただろうか、最後はディスコのようになり、踊りまくっていた。楽しい夜だった。モンゴルでこんなに日本が意識できる機会はそうはないだろう。日本とモンゴルがとても、とても近く感じられた。
8月18日(日)
サウナシャワー
翌日は昨夜の疲れが出て、昼まで休息とした。シャワーを浴びようとしたが、お湯が出ない。何と水漏れが発生していた。スタッフが来て治そうとしたが、治らない。すると『地下にサウナがあり、そこでシャワーが使えるよ』というではないか。行ってみると確かにサウナがあり、シャワーもある。
これがロシア式のサウナか。まるでクラブの個室にサウナが付いている感じで、立派なソファーセットがあり、酒が飲める。ここでウオッカの一気飲みを繰り返しながら、政治や商売を語るのだろうか。ここにもモンゴルにおけるロシアの影響を見た。
そしてセレンゲを離れる時が来た。随分長くいた気がする。不思議なほどの愛着がある。日本との共通点も多かったということだろうか。A会頭がわざわざ見送りに来てくれた。本当に我々の為に色々とやってくれた。いい人だ。彼が支えるセレンゲの中小企業、これから経済が厳しくなる中、何とかやって行ってほしいと願う。