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2.ウルムチ  (1)ホテルのネット

チェックインが済み、部屋に入り、インターネットを接続してみたが繋がらない。新疆では何度もこのネットトラブルに見舞われており、またかと思う。フロントへ行き、事情を話すと、担当が行きます、との答え。部屋で待っていると従業員が二人来て、機械を置いてサル。




ところがこの機械、どう使ってよいのか分からない。何だかガチャガチャやっている内に、何故か繋がった。この機械は不要だった。どうなっているのだろうか。確かにフロントでは、パスワードがあれば繋がると言っていたのだが。それでも私にこの機械が回って来たということは、時々繋がらない、またはある階は繋がらない、ということがあるということか。

このホテルも古いホテルを買い取ってオープンしたのだろう。いくらブランドが新しくても、設備はなかなか改善できない。現在は夏の繁忙期。これでもJ教授はいい所を抑えてくれている。昨年はホテル全体で10室しかネットが繋がらなかったのだから。

http://www.yyisland.com/yy/terakoyachina/item/4614

http://www.yyisland.com/yy/terakoyachina/item/4622
  
  

まあ、兎に角メールチェックできた。今日はこれで良しとしよう。

(2)   屋台と少女

今回お茶のご縁で、ウルムチ在住のOさんを紹介された。ウルムチに日本人が住んでいるのか、と何故か感心。Oさんは80年代から新疆の良さに惹かれ、今回1年の留学でやってきた。ウイグル語の勉強だそうだ。それはそれで凄い。


ホテルの直ぐ近くの屋台街へ行く。夜も8時過ぎると涼しい風が吹き、雰囲気がある。ラマダン中の今、日暮れ後は大勢の人が出て来て賑わう。ケバブを頬張り、ポーラを味わうと、新疆に戻ってきた感触が出る。


小さな女の子が抱えきれないほどの新聞をもって、テーブルを回っている。こんな夜に新聞を読む人などいるのだろうか、と思ってみていると、恐らくは内地から来た中国人観光客と思われるオジサン、オバサンが結構買っている。それは決して新聞が読みたかった訳ではない。今では豊かになり、新疆旅行に来られる身分になった人々が昔の自分や自分の親族、そして近所の人々のことを思い出して、呼び止めているように見える。ただ新聞を買うだけでなく、何か声を掛けている姿が非常に印象に残る。中国の格差社会はまだまだ続く。


 

1月2日(水) ソンクラーのフェリー

朝早く、波の音で目覚める。だが、強烈な雨が降ってきた。出掛けることが出来ない。ようやく雨が止んだのは午前10時半、そそくさと外へ出る。昨日の混雑はどこへ行ったのか、殆ど人がいないビーチ。既に正月休みは終わっていた。







急に日差しが強くなってきたが、何とも心地よい。足に任せて歩いて行くと、フェリーターミナルの表示があった。何気なく見ると、ちょうどフェリーが接岸され、多くの車やバイクが降りてきた。ふらふらっとフェリーに乗りこんでしまう。どこへ行くのだろうか、この船は。どこでもいいや、という気分になる。




このフェリー、単に対岸へ車やバイクを運ぶための渡し船だった。5分で到着。徒歩の人間もぞろぞろ降りていく。しかも無料。まさに地元民の足、いや橋だった。しかしどこへ行く当てもない。直ぐ近くに観音廟があり、手を合わせて見たりする。




車はかなりの数が列を作ってフェリーを待っていた。そこで果物や卵を売る人々がいた。一日いくつ売れるのだろうか?その女性の脇で子供達が纏わりついていたが、私が通り過ぎるといきなり手を出し、「マネー」という。やはり貧しいのだろうか。イスラム系の人々が住む村のようだ。




もう少し歩いて行くと空き地にイヌが三匹、ごろりと寝ていた。すると一人の少年がいきなり石を投げつけ、犬は驚いて起き上がる。何とひどいことを、と思ったが、遠い昔自分も同じようなことをしていたような気がする。これは一種のあそびなのだ、と思って気に留めずにやっていたが、本当は遊びだったのか、不満のはけ口だったのか、いじめ、とはそんなことから始めるのかもしれない。

帰りもまたフェリーに乗る。そして歩き出す。暑い。ロイヤルパゴダ、という名称が見えたので、近づいたが、このパゴダ、山の上に有り、リフトで上るという。リフトと言えば、昨年湖南省長沙で恐ろしいリフトに30分も乗ったトラウマがあり(高所恐怖症)、直ぐに諦めて去る。サルが沢山いた。




パレス、と書かれた場所がある。この地の王の住処だったのだろう。面白いのはその両脇がインドネシア領事館と中国領事館だったこと。中国がこんな田舎に領事館を開いている意味は何だろうか。この街は何か特殊のだろうか。確かに華人は多そうだが、それは理由ではない。




ホテルに帰り、汗でぬれた体にシャワーを浴びさせ、寝入る。夕方少し腹が減り、ビーチへ。ホテルの横にゴルフ場があるが、その脇では多くの食べ物屋台が出ており、竹製の小屋?で食事ができる。メニューはどこも同じで、焼魚、焼き鳥、など。ビーチなどに座り込み、買い込んだつまみをあてに、ビールを飲む若者グループもいる。少女たちの楽しそうな笑い声が聞こえる。




屋台のおばさんと目が合った。野菜炒めでも作ってよ、というジェスチャーをすると分かったという表情で懸命に作り始める。出来たのは海鮮チャーハン、それに焼き鳥。思いっきり食べたが、食べ切れない。それでも使命感で食べる。食べ終わるとおばさんに「アロイ」といって支払いをする。お互い笑顔になる。この店、旦那は適当に皿などを片付けるだけ、もしかすると障害があるかもしれない息子におばさんが根気よく仕事を言い付けていた。一生懸命働いても大した儲けにはならないように思えるが、このおばさん、頑張っているな、と感心してしまう。そして人間の生き様、について少し思いを巡らせる。










夜ある人のツイッターを読んでいたら、「マスコミは天皇陛下の新年の言葉を全文掲載せよ」というのがあった。こういう文章は直ぐに右翼で片づけられてしまうかもしれないが、実は大切な気がする。天皇の言葉が「国民の幸せを祈ります」とだけ新聞紙面に載っていても、それは何だ、と思ってしまう。マスコミは一国の象徴である人の言葉を自分の都合で表現せずに、全文を掲載し、国民自身に考えさせるべきだと思う。因みにバンコックポストの2日の紙面トップはやはり王様の写真。これって当たり前のことだろう。


 

(2)   迎えは来ていたが

空港にはJ教授が依頼した迎えが来ているはずだった。だが私の名前を持った人はいない。どうしようか、J教授たちは今、ホータンで活動中である。すると無垢付けきオジサンが私の方にやって来て、私の名前を告げた。何とか助かった。




彼の車に乗り、夕暮れのウルムチ市内へ。夕陽が綺麗だった。日本は蒸し暑かったが、ここ新疆の夕方は結構過ごしやすい。途中日本人女性から携帯に電話がある。北京駐在のMさんの奥さんがちょうどウルムチ旅行中で、気を使って電話をくれた。一人なら一緒に食事を、と言ってくれたが、実は約束があり、ジョインできなかった。残念。







車は若干渋滞があったものの、40分ほどで、ホテルへ。ホテルの名前も良く知らずに来てしまったが、迎えのオジサンは「俺は車から降りないよ」と言って走り去る。あれ、大丈夫かな?




案の定、ホテルでチェックインしようとしたが、誰の名前で予約したか分からないという。私の名前を入れていないのだ。困ってしまいJ教授の名前から、大学名、その他知っていることを全て言ったところ、何とか予約が見付かった。やれやれ。

 

1月1日(火) ソンクラーのビーチリゾートホテル

新しい年が始まった、という実感はまるでない。単に一日が過ぎ、また一日が始まったに過ぎない。昨晩のカウントダウンはどこへやら、街はひっそりしている。朝食を軽く食べ、チェックアウト。今日はハジャイからソンクラーへ移動。

直ぐ近くのバスターミナルまで歩き、ソンクラー行きのロットーが出ているので乗る。乗客は私しかいないと思ったが、後ろの女性が一人乗っていて、突然携帯でしゃべり始めたのには運転手もビックリ。この車、16人乗り。快調に進むかと思ったが、その後街中で乗客待ち。私は始発駅で乗ったにすぎず、30分は街を出なかった。そして街を出る時は満員。




料金は28バーツ、何と運転手が籠を回し、客が料金を入れる仕組み。何だか田舎芝居を思い出す。街を出ると急にスピードを上げる。20分もしない内に客が降りはじめる。香港のミニバスと同じで、降りたい所で声を掛ける。最後まで乗っていたのは私ともう一人の若者だけ。このバスは地元の人が使うものだった。だから運転手が何度も「お前はどこへ行くのか」と聞いてきたのが分かる。

バスはサミナビーチでキチンと停まった。ホテルは目の前。古いが大きかった。ロビーは更にだだっ広い。フロントは笑顔でよいが、WIFIが使えるかと聞くと何とロビーだけ、と言われ驚く。部屋へ行くと完全なSea View。気分は一気に晴れやかに。何故かWIFIも問題なく繋がり、良いお正月になる。







直ぐにビーチへ出る。正月休みか、ビーチは多くの観光客及び地元の人で賑わっていた。ここの波は非常に激しい。しかも浜に対して斜めに押し寄せてくる。近くに島が2つ見える。その景色がなかなか良い。




昼ご飯を食べようとしたが、適当な所が無く、焼鶏肉を買って部屋で食べる。ウマいが量が多過ぎた。食べたら眠くなる。昼寝をすると夜になる。まだ腹が減らないので、風呂に入る。ここの湯船も深くて、ゆったり。いい気分だ。




このホテルは沢木耕太郎の深夜特急で沢木が泊まったというホテル。ここで日本人夫婦と会い、遅くまでラウンジで語らったという。だが、今日来てみると、その面影はそれほどない。40年も前の話、途中で改装や増築などもあったかもしれない。それでもこの環境で思ったほど高くはない料金、悪くはない。





 

《新疆南路を行く》  2012年8月13-23日

大学の先生の調査団に同行して、この1年で2度新疆へ行った。最近の傾向として同じ場所へ何度も行くことが無くなっており、貴重な旅となっている。3回目の旅にもお誘いを頂き、是非行こうと考えた。ところが日程を見ると8月9日出発、私はサラリーマンを辞めた時の夢の一つ、一日中オリンピックを見ながら過ごす、をロンドン五輪で実践することになっていた。

どうしようかと迷ったが、兎に角オリンピックが終わったら、走って行けばよい?という気持ちになり、途中合流を画策。何と合流場所は新疆の果て、南新疆のホータンになった。どうすんだ、大丈夫か。

2012年8月13日(月)  1.ウルムチまで  (1)   北京経由

ロンドンオリンピックの熱戦を家内の実家に泊まり込み、16日間見た。一日16時間、飽きもせず、むしろリズミカルなほどに規則正しく見た。朝6時にゴミだしか洗濯を干し、就寝。午後1時ごろ起床し、食事、買い物、そして午後4時頃から再びテレビを見ていた。

閉会式は12日、日本時間の朝4時頃から始まっていたが、実は競技には興味があるものの、閉会式には何の興味もなく、出来るだけ睡眠を取り、それでも朝6時には家を出た。羽田から朝の便で北京へ向かった。羽田で知り合いの夫婦が仲良くベンチで寝ていた。微笑ましい。




飛行機は満席で、何とビジネスクラスにアップグレードされた。だが眠たくて、殆どビジネスクラスを満喫できずに、時間が過ぎて行った。順調に北京に着いたが、次のフライトが少し遅れた。3時間ほど待って午後4時のフライトで更にウルムチへ向かった。午後8時過ぎにウルムチ到着。だがここ新疆には新疆時間があり、まだ午後6時半だった。何だか一日がとても長い。





 

12月31日(月) ハジャイの大晦日

夜中に大雨が降った。結構大きな雨音にビックリ。そして朝になってもしとしとと霧雨が降る。タイでこの季節に雨が降るなんて、と思っていたが、天気予報を見るとKLも雨。ここハジャイはタイではなく、マレーシアなのかもしれない。朝ごはんはビュッフェだったが、カオトーンというお粥が美味しく、そればかり食べる。雨が止まないため、部屋にこもる。することもなく、「深夜特急」を読み返す。文庫2冊目のマレー半島編、結構切ない。特にペナン島の売春宿で働く女とそのヒモの話、何とも言い難い。




何とか雨が止んだが、時刻は既に11時。今泊まっているホテルはイマイチなので、ホテルを変えることにし、予約を入れたので、移動を開始。ところが、何と再び雨が降り出し、ずぶ濡れになる。歩いて10分ぐらいと思っていた新しいホテルまで何と20分以上掛かったし、その間に雨脚はどんどん強くなり、背中のバックにあるPCが心配になるほど、濡れてしまった。




雨に濡れながら、車が水を跳ねるのを気にしながら歩いていると、「何故私はこんな所に居るのだろう」と思ってしまう。日本人なら日本に帰り、紅白歌合戦や駅伝を見る方が普通ではないのか。確かにその通りだが、最近は「それが定め」で片づけている。来年は「少しスピードを落とし、考えながら行動しようかな」と弱気になる。

今度のホテル、見た目は新しく、清潔感がある。それでも部屋のドアはきちんと閉まらず、毎回強引に開け閉め。またバスタブが広くてよかったが、お湯を流そうとしても、出来ず。こういう細かい?ところがきちんとできないと日本ではフラストレーションが溜まるが、こちらでは見た目が大事、ということだろうか。まあ、暮の31日に足を伸ばしてゆっくりと湯に浸かったのだから、大満足なのだが。


   

 

午後2時ごろ雨が止み、昼ごはんへ。直ぐ近くにバスターミナルがあり、そこで年越しそばならぬ、年越しクイッティオ。きしめんのような太くて平べったい麺で大好物。どこで食べても美味しい。沢木耕太郎も深夜特急で食べていたので、つい手が出た。沢木はこれをバンコックの駅で食べるのだが、そこの6-7歳の子供の行動を疑ってしまい、後悔している。まさに最近、中国に住んで覚えてしまった「性悪説」になっている私にも、痛い話題だった。そしてまた雨。ここは完全に雨季だ。夕方までシトシト。このホテルは街から結構離れているので、もう一度濡れ鼠になって歩く気分ではない。テレビはNHKワールドしかないので、紅白も楽しめない。どうするんだ、この年の瀬に。




ようやく晴れてきたのは午後6時頃。また昨日と同じ街へ出た。それしか行く所が無かった。そして美味しそうな海鮮オムレツを買ったが、食べることが無く、持ち帰ってホテルの部屋で食べた。たれを付けるとバカウマ。今年もいい年だったと思えた。夜は方々で花火や爆竹の音が鳴り響いた。テロの危険が言われていたが、正直こんな中で発砲や爆発があっても誰も気が付かないだろう。そういえば、街中では警備の警官が観光客の記念撮影に応じていた。何とも長閑だな。せめてもの救いは街から離れていたこと。直ぐに眠りに落ちた。今年は呆気なく終わった。








 

(5)変化はミャンマーの為?

最後のお昼はヌードル&カフェへ。この店のコンセプトは軽食としてミャンマー各地の麺を出すことと居心地の良いカフェであること。入り口から吹き抜けのロビー、ゆったりとした庭。恐らくは欧米人を意識した作りだろうが、お客さんはミャンマー人、それも若い男女が多い。お金持ちや政府高官の娘や息子ではないだろうか。ここでもダラッとした姿勢で座り、スマホをいじっている。







ヌードルはやはり屋台などで食べた方が美味しいような気がする。それでも雰囲気が良いので、気持ちはよい。ヤンゴンにはお金持ちやその子弟がかなりいる。彼ら向けにアメリカやヨーロッパで生活したミャンマー人がカフェを作る動きもあるようだ。日本への出稼ぎ者は寿司屋、欧米系はカフェ、面白い。




そしてついに空港へ。また綺麗な空港へやってきた。チェックインもスムーズ。昔のような緊張感はまるでない。SSと彼氏、あっと言う間に分かれた。TTMは仕事でいない。昔ならながのお別れをやったものだが、全てが近代化?している。イミグレに向かうと、透明の壁の向こうからSSが強く手を振っているのが見えた。そうでなくっちゃ??




空港内では何故か緑茶を売っていた。結構おしゃれなパッケージだが、ミャンマーで中国茶??うーん。やはりミャンマーは変わった、いや大きく変わったのはヤンゴンだけだが、私の知るあの懐かしのミャンマーは少しずつ消えて行っていることは確かだ。残念なようであり、それがミャンマーの人の為であるような。何とも複雑な気持ちで飛行機に乗り込んだ。




 

12月30日(日) ハジャイの街

ノックエアーを降りると、そこはハジャイの空港。先ずはどうやって街へ行くのか。またトゥクトゥク野郎と料金交渉するのか、嫌だな、と思っていると、エアポートタクシーなる看板が。見ると市内まで一人100バーツ。更には白タクや白トゥクの姿はなく、迎えが無い人は基本的にこれに乗るらしい。タクシー1台は300バーツ。







タクシーというか、ロットー(ミニバス)。お客は女性二人と私。市内までは10㎞ちょっとか。直ぐに着いた。予約したホテルは昔の一流ホテルという触れ込み。確かにそうだった。ロビーは立派で広いし、部屋も広かった。だがホテルキーを差し込むと電気が入るのだが、エアコンはどうやっても止まらない。とても寒い中、タオルを被ってPCに向かう。PCの充電をするためには私が部屋に居なければならず、エアコンも点いているのである。風邪ひいた。おまけに小さな虫がいてかまれて痒い。こりゃいかん。







ハジャイの街は小さい。ホテルは中心から少し離れており、散歩しながら中心へ。中国的な寺がある。中国系と思われる人々が歩いている。ここはタイか、中国か。更に中心部の屋台ではイスラム系の女性が中華系料理を作って売っている。混沌とした街、ハジャイ。マレーシア華人が年末年始を過ごしにやって来ているようだ。




中心のデパート、ホテル街付近は車両通行禁止で警備の警官が大勢出ている。実はテロの予告があるようだ。以前よりタイ南部はイスラム系のテロが頻発しており、特に危ない所へ行かない日本人には敬遠されている。私にも知らせてくれた方がいたが、最近の気分は「そこでテロに会ったら、それは私の人生の定め」と割り切ってしまっている。実際観光客がいない場所は、何とものんびりしており、いい感じなのだ。

ハジャイ駅へ向かう。私が今回ハジャイへ来た目的は殆ど何もないが、唯一あるとすれば「深夜特急」で沢木耕太郎が訪れたハジャイを見ること。彼はスラタニーから夜行でハジャイ駅へ降り立ち、乗り合いタクシーでソンクラーへいく。そしてまたハジャイ駅へ戻り、ダッシュして列車に乗り、マレーシアへ抜けて行った。




駅も警戒厳重のように見えたが、タイの他の駅同様、出入り自由。誰にも咎められない。駅前には機関車が置かれ、国王の写真が飾られていた。ハジャイはこの駅を中心にとても小さな街を形成している。




夕飯は中心街のローカル市場で食べた。本当は中華系の食堂に入り、中国語を使って話を聞いてみたかったが、適当な店が無かったことと、おばさんが作っていた物が美味しそうだったので、ふらふら頼んでしまった。それはマレーシアで昔食べた卵を入れた焼きそばに思えたが、実際に食べてみると何と麺は無く、ジャガイモと思っていたのが、お餅だったのだ。そこにもやしとにらを入れて炒めただけだが、美味い。僅か30バーツ、2日前に正月が来た気分だ。ついでに豚と鶏を揚げた物も買った。塩味が効いていて美味かった。極楽、極楽。


 

6月28日(木)  (4)ショッピングセンタ―の衝撃

今日はミャンマー滞在最終日。心残りは多いが、また来ればいい。最後に最新ショッピングモールに連れて行ってもらう。今年初めにオープンしたというこのモール、シネマコンプレックスも併設し、ここはヤンゴンか、と思うほど、新しい。



 

お客さん、特に若者はスマホやIPadを手に持ち、Wifiはフリー。まるでバンコックなどの他の東南アジアのモールではないか。勿論若い女性でロンジーを穿いている子はいない。どころか、ミニスカート、ショートパンツが多い。お金持ち風のオジサンだけがロンジーを穿いており、このコントラストが面白い。




 

化粧品コーナーは日本製も多いが、宣伝は韓国製が優っている。上の階にはダイソーの100金ショップもあり、ミャンマー人が好きそうな雑貨が売られている。この店はミャンマー人がミャンマーで売れそうな物だけをコンテナごと、ダイソーから買い取ったとも言われた。渋谷系の最新ファッションを売る店も出ていた。値段は相当に高いようだが、お金持ちのお嬢さんが買いに来るらしい。







 

更に上には食堂街もある。タイやシンガポールのレストランに混ざり、日本のラーメンショップも出ていた。Bred Talkのようなシンガポール系のパン屋もあり、結構高いと思うのだが、売れていた。一度美味しい物を食べてしまった人は後戻りできないということか。




 

銀行のATMも店内に設置され、普通にお金が引き出せるようだ。7年前には全く考えられないこの光景、ここだけを見れば、ミャンマーの将来は明るい、とも言える。


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