12月30日(日) ノックエアーに乗ってみた
今年の残すところあと2日。日本では年賀状書いたり、大掃除したり、帰省ラッシュに巻き込まれたりしているかもしれないが、既に1年9か月の放浪生活を続けていると、年末とか年の瀬とかいう言葉は正直ピンとこない。ただ年末年始に時間が出来たので、どこかへ行こうと考えた。
初めは12月の東京報告会でご縁を得た関係でマレーシアのサバ州へ行こうとしたが、現地の紅茶工場がクローズということで断念。次にチェンマイ郊外の少数民族の村へ行こうかと思ったが、こちらもご縁を得た方と会えずに、結局行く機会を失った。そして、何故か、タイ南部ハジャイとソンクラーへ行くこととなった。
マレーシアへ行けばよいのだが、最近の円安は私の旅行資金をかなり圧迫しており、節約したかった。鉄道やバスは年末年始の休暇移動でかなり大変だと言われ、それではLCCで行くことにした。ところが、エアアジアの料金とノックエアーの料金がさほど変わらない。座席料金だけなら確かにエアアジアは安いが、荷物を1つ預けると300バーツ(15㎏まで)取られるので、往復で600バーツ加算すると合計料金は200バーツも変わらなくなる。
そうなると、荷物の重さを気にしなくてよい、座席指定が事前に出来る、簡単な飲み物が出る、というノックエアーが良く見えてくる。更にはタイエアーの子会社であるという安心感、CAの笑顔にも定評あり、と聞くと乗ってみたくなるのが人情??レガシーとLCCの中間ニーズを補足するノックのような航空会社が好まれてきているように感じる。
バンコックのLCCはドムアン空港に集められていてこれは不便(ノックもLCC扱い)。ドムアンに行って時刻表を見ると当たり前だが、KL起点のエアアジアよりバンコック拠点のノックの方がはるかに多くの便を運航している。お客も多いようで、チェックインには時間が掛かる。飛行機の到着が遅れて出発は30分ディレー。でも、ノックエアーの乗客であれば、空港内フリーWIFIは嬉しい。予約番号がパスワードになっているので、何と予約したPCを使うと予約番号が出て来て直ぐに繋がった。いいぞ、これは。
機体は比較的新しく、清潔。CAさんの黄色の制服もなかなかよい。知り合いで「あの制服に萌える」という人もいるようだが、そこまではどうか。でも確かに笑顔の接客があり、好感は持てる。
僅か1時間のフライトなので、何もいらないのだが、甘いパンと水が配られた。何もないよりは良い。風邪気味のせいか、冷房が寒く感じたが、毛布は無いようだった、残念。基本的にはエアアジアと大きく違うわけではないが、ほんのちょっとしたところの違いが意外と大きいのかもしれない。気持ちの問題だが、その問題は影響が大きい。帰りも乗ってみて観察を続けよう。
(3)ヤンゴンのカフェ
お昼はヤンゴンの老舗カフェでクラブサンドイッチを食べた。このお店、7年前にもあった。当時は珍しいといわれており、すぐ横で爆弾テロがあったような気がする。兎に角ヤンゴンの欧米人の間で有名なカフェ。
今では当然のようにWifiはフリー。お客は欧米人だけではなく、韓国人やミャンマー人の姿も見られた。相変わらず料金は高めだが、ロケーションが良いため、所得の高いミャンマー人、外国人と商売をするようなミャンマー人の出入りも多そうだ。
夜はSSとフィアンセと、庶民的なイタリアンへ行く。今回のミャンマー訪問で一体何回イタリアンレストランへ行っただろうか。私は自分から食事を指定することはなく、皆に着いて行くだけだから、これが今のトレンドということだろう。
このお店は住宅街にある一軒家。外国人が来るのではなく、ミャンマー人の中上流家庭が家族やカップル、友人同士で来る場所のようだ。ミャンマー人の若い女性4人が楽しそうに食事している様子が不思議な感じだが、それが今のヤンゴン。イタリアンながら何故かスパニッシュのパエイリャが登場。海鮮がふんだんで意外とおいしい。ピザもイケる。お茶飲みながらピザというのも何だが、まあまあ良い。
SSはいつ結婚するのだろうか。もうフィアンセと付き合って4年、TTMからは仕切りに早く結婚するように迫られているらしい。私もSSの結婚式には是非出席してみたい。相変わらずSSは「結婚式場はXXホテル、家はXX」などと我儘放題言っているが、最後の抵抗、甘えだろうか。そうは言っても実はSSは料理上手。昨日も私の為に自ら料理してくれた。いい奥さんになるだろう。
実はこのフィアンセ、国境貿易の仕事をしており、ヤンゴンに住んでいる訳ではない。態々私に会うために?いやSSに会うためにヤンゴンにやって来て、我々に付き合ってくれている。それだけでも日本では考えられないが、性格的にも穏やかなナイスガイ。タイから製品を輸入するのだが、コーヒーや家庭用品から、衛星放送の機材まで何でも扱うらしい。最近急増している輸入品がキャットフード、というのも今のミャンマー、いやヤンゴンを象徴している。
12月29日(土) とてもラフな思い付きバンコック茶話会開催
24日深夜、零下15度の極寒の北京からバンコックに辿りついた。バンコックで夜風に吹かれていると「人間の幸せはこんなことだなあ」と思ってしまう。ただ暖かいというだけで体が脱力する幸せ、噛み締めた。
そしてそんなダラダラの気分の中、突然「茶会でもしよう」と思い付く。これまでMさん主催のバンコック茶会は既に3回開催されており、定着してきたが、平日来られない人の為に土日開催の茶会をしたい、もっとラフな会をしたい、という希望が心にあったようだ。まずはBTSチョンノンシー駅近くでお茶屋をやっているポーラに電話し、場所を確保した。
だがこの年末に、しかも僅か3日目の通知では、「既に帰省している」「先約がある」との当然すぎる回答を貰う。それでもめげずにいると、先日ヨーガ合宿で一緒だったIさんがお友達を連れて参加するという。最終人数2人と明記したので、これで会は成立した。そしてやはりヨーガで一緒だったKさんも参加。更には2日前に一緒に飲んだSさん、Kさんを引き込み、前日にはバンコック茶会に来てくれたT夫妻も参加となり、なんとなく会の形が整う。
当日、殆ど準備もせずに、会を始める。持っているお茶が全て詰まった袋を持参。まさに話の流れで、またその時の気分でお茶を出し、話をした。プロジェクターが無いのでPCの小さな画面を見せることになり、申し訳なかった。
トルコの緑茶に始まり、湖南省安化の紅茶、福建の白茶と続き、阿里山高山茶、タイチェンライ県の金萱茶と飲み続けた。話もトルコが注目の国であること、反日のこと、台湾茶が足りないこと、果ては杭州のお寺のお茶まで話がどんどん飛んで行った。
そして2時間半が過ぎ、ようやくポーラのプーアール茶講座が始まった。生茶と熟茶の違い、そして今回は彼女の故郷、広西壮族自治区で作られる黒茶、六保茶の由来などまで話が及び気が付けば、6時近くになっていた。主催者は楽しかったが参加者はどうだったろうか??
その後4名でポーラお勧めの本格四川料理屋へ。本当に中国人しか働いていない、中国人を対象としたお店だった。お客は多く、殆どが普通話を話していた。その付近にある中国料理店の多くが、行き成り中国語で話し掛けてくるタイプの店。うーん、バンコックは広い。料理のあまりの美味さに?写真を撮ることすら忘れた夜だった。場所はナラワティロード ソイ24らしい。
6月27日(水) (2)ウラミットさんと
今日は午前中、ミャンマーの企業を訪問し、沢山の刺激を受け、情報を貰った。ミャンマーの変化の象徴を見た気がした。面談は全て英語、最先端の技術を駆使して、ミャンマーを変えていこうという意気込みが感じられた。
訪問終了後、ガローで会えなかったウラミットさんを訪ねることになった。これは望外の喜びだ。ウラミットさんの住まいは少し郊外の分かりに行く場所にあった。車はある塀の中へ入っていった。ここは別世界だった。豪華な戸建ての家がかなりの数存在していた。ここがヤンゴンの金持ちの住処であることがすぐに分かった。
ウラミットさんと8年ぶりに再会した。80歳になったウラミットさんは最近この家から出ることもなく、日本語を使うこともなかったようで、訪問をとても喜んでくれた。この家は息子さんの関係で留守番として住んでいるとのことだったが、ご本人はガローに戻りたい様子。
ミャンマーの変化も冷静に見つめており、大変参考になる話が多く出た。日本とミャンマーの友好関係については特に重視しており、今後の発展に期待している様子が分かった。でも、そんな簡単に事が進まないことも、この人生経験豊富な老人は良く理解しているように見えた。
「死ぬ前に日本にもう一度日本に行きたいな」という言葉に、ウラミットさんが歩んできた日本との関係が表れていた。彼が戦後付き合って来た日本人、元兵士、遺族などは既に鬼籍に入った人も多く、知り合いがどんどん減って行くことに悲しみを覚えている。日本とミャンマーの関係は、新時代に入ろうとしているが、果たしてそれは良好な、好ましい関係になるだろうか。
帰りは車で送ってもらった。何とウラミットさん夫妻も車に乗り込み、ホテルまで同行してくれた。「最近表に出ていないから、ちょうどいい機会だ」と言ってくれたが、そこには表せないほどの日本への愛情が感じられた。
6月26日(火) 5.ヤンゴン2 (1)散歩
ガローから車でヘーホー空港へ行き、お約束のシャンヌードルを食べ、何となくTAMと別れた。うーん、寂しいというか、何というか。また会えるだろうとの思いは強いが、TAMもガイド業を少し減らしているようで、ちょっと心配。ミャンマーが変化するということは、一般庶民もその影響を大きく受けるということだろう。
エアバガンに乗り、あっと言う間にヤンゴンへ戻る。ヤンゴンはかなり強い雨が降っており、旧国際空港ターミナルが煙る。タラップを降りると、何と航空会社職員が皆で傘を持って並んでいた。お客が濡れないように、傘を差しだす。この何とも原始的なサービスが嬉しい。
空港にはTTMが待っていてくれ、またWishホテルへ戻る。ホテルの部屋でインターネットをしようとしたが、何とここでもできなかった。あれ、数日前に宿泊した時は出来たのに。ホテルの従業員に伝えると、部屋を替われていい、部屋を替わったが、やはり状況は変わらず。専門業者が呼ばれて、意味が分かる。ニャウンシュエのネットカフェでカフェの人が入力した番号が障害となり、繋がらなかったのだ。専門家が来ればすぐに分かる。久しぶりにゆっくりとメールした。
それからTTMのオフィスへ行く。SSが忙しそうに働いていた。もう一人、日本語に出来る女性も来ていた。結構忙しいなんだな、と分かる。やはりシャン州とは違う。空気が違う。ヤンゴンだけが突出した都市であり、ある意味でここはミャンマーではないと感じる。
散歩に出る。交差点に大きな化粧品の広告が出ている。良く見るとハングルがある。韓国系の化粧品だと分かる。ミャンマー人は特に意識しなくても、本当の金持ちは日本製、一般人は韓国製を買うとある人に言われた。そうだろうか、そうなのだろう。
ソニーのテレビの宣伝が見えた。日本製は圧倒的に人気があったのに、今ではどうなんだろうか。ちょうどサッカーのヨーロッパ選手権があり、サッカー好きのミャンマー人男性を惹きつけた様だが、テレビはどこの物が売れたのだろうか、何となく日本ではない気がする。
車も中古品はトヨタなど日本製が多い。だが、最近は現代など韓国製も伸びてきており、またインド製のタタも安さを武器に進出しようとしている。中国製も奇瑞のQQなどがタクシーとして使われて、一定の地位を保っている。
(2)ガローで再会かなわず
街のホテルに戻る。インターネットOKと言われたので、早速自分のPCを繋げてみたが、全く反応しない。もうメールチェックすら3日以上していない。仕方なく、そこにあったPCでネットを繋ぎ、メールチェックを試みる。確かに繋がっていたが、一向に動かない。1枚の画面が動くのに、20分は掛かった。結局約1時間後、無事メールを見ることが出来た。繋がるだけマシということか。
ガローまで来たら、どうしても会いたい人がいた。ウラミットさん、8年前に一度訪ねたミャンマー人で、地元で日本語学校をやっていた。流暢な日本語を話し、日本への思い入れも深い。既に80歳ぐらいだろう、元気であろうか。彼の自宅で見せられた第二次大戦中従軍看護師だった人の手紙は、今でも脳裏に焼き付いている。既にインパール作戦も歴史となり、その戦いを知る人も少ない。彼自身も日本軍に連れられて、インパール近くまで行ったという。少年兵というか、軍族というか。貴重な体験を日本語で語ってくれる極めて貴重な人である。
街の外れにあるウラミットさんの家へ向かう。街中にはフォトスタジオなるものがあり、ミニスカートの女の子の写真がでかでかと飾られる。こういう所を見るとミャンマーも変わってきている。今でも田舎ではロンジーが主流だが、若い子達はジーンズに変わってきている。
そして郊外へ出ると、何とゴルフの練習をしている人々がいた。確かにここガローはイギリス植民地時代の避暑地であり、ゴルフ場が存在している。それでも一般のミャンマー人がゴルフをする姿は想像できなかった。彼らは一般人なのだろうか、それとも軍人だろうか、それともプロを目指す人々なのだろうか。
ウラミットさんの家は変わっていなかったが、門は閉ざされていた。何度か呼ぶと女性が出て来て、ウラミットさんはヤンゴンに居ると、告げられる。この女性はお嬢さん、現在は留守番をしているという。日本語学校はウラミットさん不在で実質的に閉鎖されていた。病気をされた、との話も聞いていたが、元気だそうだ。会えなくて残念。
街に戻り、夕飯を。まだ5時半だが、最近は慣れてきた。今日はシャンヌードル、但しスープは別にもらい、何と豆腐ペーストを絡めて食べる。これも美味しい。少し酸っぱい漬物を頬張ると、どうしてもお替りしたくなる。今度はスープヌードルを頼む。でもなぜか量が少ない気がする。後で聞くと私の食べ過ぎを懸念したTAMが麺の量を半分にして頼んでいた。何とも気が付く人である。
腹が一杯になったがまだ明るいので、散歩へ。お決まりのお寺へ行く。このお寺、丘の上にあり、階段がきつい。いい運動になったが、息が上がる。お寺が見えるとホッとした。そして眼下を見下ろすと、いい景色が見えた。まさに腹ごなしにはいい。ヤンゴンでは一度もお寺に行かなかったことに気が付く。7年前は暇があると行っていたのに、みんな忙しくなり、携帯を振り回して働いていた。ミャンマーはやはりお寺が落ち着くのだが。
翌朝ホテルをチェックアウトし、車でガローホテルへ向かう。何となくもう一度見ておきたかった。100年以上前にイギリスが作ったこのホテル。相変わらずいい雰囲気を持っていたが、昨晩の宿泊客はゼロだったという。周辺には新しいホテル、ロッジなどが沢山出来、避暑地としては発展してきている。
お茶仲間のみなさまへ
こんにちは。いつもお世話になりありがとうございます。宮崎良子です。
第4回バンコクお茶会.セミナーのお知らせ、
今回は「須賀努氏の茶旅報告会、アジア各国のお茶を飲みながら」です。コラムニスト・アジアンウォッチャ―として活躍されている須賀努氏の茶旅報告会は大変面白く、日本でも大人気で東京で12月に2回開催されています。
今回はスリランカ、トルコ、中国2カ所、タイメーサロン等、産地を手作りの旅で回った体験、あまり知られていない紅茶の歴史、生活や文化などのこぼれ話など、とても貴重で楽しいお話しをして下さいます。それぞれのお茶を、スライドとお話を聞きながら、淹れたてを味わっていただきますのでお楽しみに♪
お菓子は和菓子屋さんの息子さんでいらっしゃる金子氏による手作りの洋菓子をご用意いたします。 こちらもわくわくですね!
1月17日(木)10時~12時
パーソネルコンサルタントギャラリー、インターチェンジ21ビルL階
会費300バーツ
ご参加ご希望の方、またご質問等がございましたら、お気軽にお問い合わせ下さいませ。
どうぞ宜しくお願い致します。
TEL:083-922-5793
Email:ryoko2007miyazaki@yahoo.co.jp
宮崎
4.ガロー (1)ガローの茶畑は
それから1時間半車に乗ってガローへ向かう。ガローは、最初にミャンマーを訪れた際に行った街。その後、行こうと思ったが、叶わず今日に至る。今回はそれを察したTAMがアレンジ。8年ぶりの訪問となる。街はそれほど変わっていない、小さな街だ。ホテルは新しい所がいくつかできていた。
郊外の山道を行く。茶畑を訪ねるために。途中で車を降り、歩く。TAMは欧米人が好きなトレッキングガイドを長年やっており、この辺にも茶畑があることを知っていた。ところがいくら歩いて見ても、茶畑はない。どうしたんだ。
道路工事をしている人々と出会い、話を聞く。村長という人が自ら工事に参加していた。「確かに数年前まで茶畑はあったが、いくら作っても小規模では儲からない。そこでオレンジ栽培に切り替えたが、害虫にやられてしまい、みんな農業が嫌になってしまった。最近男は出稼ぎに行き、いい稼ぎがあると、この辺に家を建てている。農業なんて、バカバカしくてやっていられない」
もう少し歩くと確かにオレンジ畑があったが、収穫もされずに放置されていた。更に進むと一面銀世界?と見える畑も。害虫駆除のためにかなり強い農薬を撒いたようだ。農家の若者は「何だかもうどうしようもない」と吐き捨てた。
ミャンマーは偉大なる農業国家、というのが私の印象だったが、既に一部では崩壊していた。それを促したのが、現金主義による転作、失敗であり、収入源として資源産業などでの出稼ぎが農業収入を遥かに上回っている現実。これからのミャンマーの農業はどうなってしまうのだろうか、そして茶畑はどんどんなくなって行くのだろうか。