8月18日(土) (3) アクス郊外
翌朝はクチャに向けて出発。J教授の妹さん一家がアクスからウルムチへ引っ越すこととなっており、その家財道具の一部を積み、またJ教授のお父さん及び妹さんの息子も車に乗り込む。更に面白い旅になりそうだ。
先ずはアクス郊外の遺跡を目指す。ここは数百年前の街のようだが、今は廃墟になっており、砂に埋まっている感じだ。シルクロードの遺跡、という雰囲気が漂う。全く整備されておらず、何が何だか分からないがかなり広い街がそこにあったように思われる。そして周辺の開発は進んでいる。もしやすると開発の過程でこの遺跡が出て来たのかもしれない。保護されるのかどうか、なかなか難しい現実がありそうだ。
(4 ) 美味い昼飯
車はクチャを目指すと思ったが、直接クチャへは行かず、A教授の希望で(私の希望でもある)キジル千仏洞へ向かう。普通に行けば高速道路を通り、味気ない景色が流れていくのだが、今回の道は三蔵法師も通ったかと思うほど、新疆南路に相応しい古びた道。
途中でランチを取る。道路沿いの街の何の変哲もないレストラン。ラマダン明けで朝から営業している。いい湯気が立っている。ケバブを焼くいい煙も立っている。餃子も作られている。ラグメンとケバブそして熱々餃子を口に含むと、あまりの絶品に口も驚く。
庶民が食べる何気ない食堂。そこには低価格で美味い物がある。そして一杯のお茶を啜れば、もうそれで満足。J教授のお父さんを見ていると、本当にそう思う。人間には限度がある、各人には分がある、ということを今の資本主義社会は忘れている。
4.アクス (1) アクスで
街中のホテルに入る。アクスの街は正直大きくはない。発展から取り残されていると言ってもいいかもしれない。それでもホテルのロビーにある旅行社の宣伝には「チャーター機で韓国へ行こう」などと書かれている。一体誰が行くのだろうか。
夜はJ教授の知り合いが集まり、きれいなレストランで夕食を取る。そして夜市へ案内される。ホータンといい、アクスといい、残念ながら主要な産業に恵まれない地域は取り残されていく、という印象を持つ。でも、発展すればよいというものではないから、何とも言えないが。
8月17日(金) (2) 夜の大宴会
翌朝は郊外の農業関係の施設を訪問した。果物に特化して成功しているケースを見た。そして何よりも元々日本の技術が山東に導入され、その技術が更にこちらに入れられて作られていたリンゴがここで開花していた。一部は以下のコラムに書いた。
http://www.yyisland.com/yy/terakoyachina/item/5260
ここで成功した農家が近隣に建てられた別荘のような家を買っているという。銀行から住宅ローンも出るらしい。まさに小さな都市化の表れであろう。
夕方J教授の実家へお邪魔した。J教授のお父さんはやはり大学教授。しかもアクスでは有名な教育者でアクスにある大学の校長も務めていた人物。実家はその大学の敷地内にある。如何にも中国的。小さいが実に雰囲気の良い前庭があり、竈もあった。N教授が理想とする家がそこにある。
本日はラマダン明けということで、家には親戚が詰めかけ、ご馳走が作られ、我々を待っていた。羊肉をナイフで丁寧に切り分け、ポーラの上に載せて食べる。汁麺も出てくる。フルーツもふんだんにある。何だか凄いパーティに紛れ込んだ気分。
8月16日(木) (4) 砂漠縦断 500㎞
翌朝はホータンを離れ、タクラマカン砂漠を縦断する。朝ごはんはホテルのビュッフェではなく、ウイグル式が良いと主張したが、ラマダン中で空いている所はなく、何とある秘密の場所で食べさせてもらったが、ここでは多くは語らない。ウイグルには秘密にした方が良いことは結構多い。
ホータン市内を抜けて、砂漠高速?に入ると、後はひたすら一本道を行く。通行量は殆どなく、いくらでもスピードを上げられそうだ。だが、砂漠で皆が爆走して事故が起こっても救助が大変、ということで、合計何時間以上で走らなければいけないというルールがあるようだ。イチイチ監視できないので合理的なような気もするがどうだろうか。
一面砂漠の中を走るのは初めてで、最初は物珍しかったが、その内飽きて来る。飽きてきてもどうにもならない。ましてや私以外のメンバー既にこの道を一度通ってホータンに来ている。皆ぐっすりと寝入る。
途中で休憩した。特に休憩所などはなく、砂漠で休むのだ。持ち込んだスイカとメロンを砂漠で切り、豪快に食べる。これは本当に美味い。そして砂漠を探索する。昔のシルクロードの旅人はこの砂漠をよくぞ歩いたものだ。ずっと歩いていたら、気が狂いそうになる。そして変化があるようで、ないような砂漠。道に迷えば絶望的な気持ちになるだろう。
7時間ほど掛かって今日の目的地、アクスへ到着。アクスはJ教授の故郷であり、今回外せない場所であった。
バザール
昼はラグメンを食べる。そして私は昨日来たばかりだが、一行の半分以上が午後帰国の途に就いた。殆ど擦れ違いであったが、驚くような出会いもあった。銀行員時代に香港でお会いした方がそこにおられたのである。また東京の家が歩いて10分というご近所の親子もいた。名物の干しブドウを買い、別れた。
我々はバザールへ向かうことになった。歩くと遠いということでタクシーを使う。3㎞ぐらい離れた所に大きなバザールがあった。しかもラマダン明け直前ということで結構な賑わいを見せていた。気を付けて歩かないとはぐれるほどであった。
食品からスカーフなど衣料品まで実に多くの物が扱われていた。ホータンは絨毯でも有名な街。全て手織りで、精緻な模様は伝承により織られるという。ベテランでも一日に3㎝も進めばよいとか。ちょっとした物でも仕上げるのに半年から1年は掛かる。バザールにも沢山絨毯は売られているが、聞けば多くが内地から来ており、地元の物は殆どない。「機械で織る安い絨毯が入ってきて、地元の産業も廃れた。未だに手で織っている物は、高級品として市場には出回らない」という。シルクも同じだろう。
子供達も働いていた。市場では子供を含めた一家で商売をしている例が多いが、やはり子供の存在は気になる。お婆さんを助ける孫娘、自ら秤を持って商売する男の子、生活とは、学問とは何か、と思ってしまう。表面的には豊かではなくても、心は豊かかもしれない。
羊の丸焼きを見て、「昨日の村の大宴会は凄かった」と皆が言う。村では外国人が珍しかったらしく、羊を潰して歓迎してくれたらしい。そうなれば食べない訳には行かず、勿論飲まない訳にもいかない。これは十分理解できる。しかもラマダン中だ。お祭りのような物だ。私が取り残された理由に納得。
帰りは歩いて行く。N教授はナンを焼く竈に異常に興味を示し、写真を撮り、中を覗かせてもらっている。日本にこの竈を待ちかえり、ナンを焼きたいらしい。ナンはここで食べるから美味しいのではないか、とも思うのだが、ついでにケバブ台も持ち帰り、日本の山の中で暮らしたいという。うーん。
中華宴会
夜はJ教授のお知り合いなどが参加して宴会となる。ただ時期的な問題(ラマダン)もあり、街中のウイグルレストランで派手に宴会するのは憚られる、というので、ホテルの中華宴会となる。普通の中華が並ぶ中、態々取り寄せて食べさせてもらった、羊肉と汁がたっぷり詰まった肉まんは美味だった。私は羊スープが飲みたいと思ったが、出なかった、残念。
8月15日(水) (3) 市内視察
本日は朝から市内視察となる。企業訪問が無かったからである。先ずは学校へ。この学校、20年以上前に日本の無償援助で建てられている。何故このような所に学校を建てたのか、不思議ではある。どうやら漢族の子供が通う学校らしい。校庭も広く、建物はかなり立派である。校舎に入ると世界的な科学者などに交じり、歴代国家指導者の肖像画があったりする。そういう所を除けば日本の学校とあまり変わらない。今回の視察団にはTさんの7歳になるお嬢さんが参加しているが、理科室に入るなり、「日本の学校と同じ」と喜んでいたことからも分かる。
ホータン市の博物館へ行く。今日は休みのようだったが、交渉の結果、見学することに。ホータンらしく立派な玉の置物がある。中には砂漠地帯で発見された遺物が展示されている。この博物館に30万円を寄付したという日本人の名前がプレートに書かれていたりする。日本とホータン、特に20-30年前は深い繋がりがあったということか。
玉市場
バスは街の中心から少し離れた河沿いで停車した。建物の方へ歩いて行くと、スーッと男性が近づいてきた。そして右手を差し出す。言葉はなく、何となく不気味。手の中には小さな石が握られていた。玉か、と聞くと黙って頷く。我々めがけて次々に男たちが近づき、手を出す。これは何だ、交易の原点ではないか。
建物の中は玉売り場だった。如何にも観光客向けといった感じで、客は殆どおらず、店員は皆手持無沙汰で。携帯などをいじっている。ウイグル族の先生たちはこんな所に用はないとばかり、外の露店を物色している。我々もそれに従う。小さな玉を買うと、ネックレスにするため、穴をあけ、ひもを通す。その作業を専門にやる人々もいて、如何にも市場らしい。
玉と言えば、思い出すのは完璧の由来。壁とは玉を薄く輪の形に磨き上げたもの。戦国時代に「和氏の壁」と呼ばれる素晴らしい玉を持つ趙に対して、強国秦がそれを要求。趙の使者は巧みな外交手腕を発揮して、壁を失うことなく、帰国。「壁を完(まっと)うして帰る」、完璧である。
尚玉は河原から拾ってくるらしい。市場の横の河でも数人がずっと下を向いて、探している。もし見付かれば、そのままこの市場に持ち込み、黙って客の前に手を出すのだろう。帰り掛けに、数十人が集まっている姿を見る。一人に向かって皆が買い取りを迫っているようだ。これが市場の買い取り人かもしれない。
A教授は「市場で玉を買っても騙される。地元の人が間違いないと言った店で買わないと」と言いながら、1軒の店を目指した。その道も小さな玉の店がずらっと並んでいた。ホータンという所は、至る所に玉の店がある。どうやって成り立つのだろうか。仲買システムなどはどうなっているのか。店のオーナーが少し大きな石を持って来た。懐中電灯で石を透かす。「この玉は100万元以上だな」と事もなげに言う。店には100万元以上の言い値の玉がゴロゴロしていた。一体どうなっているのか、誰が買うのか。地元の金持ちも買うし、北京や上海など大都市の金持ちも買う。ここにある玉はまだ原石。精密な加工はウルムチか、北京、上海などになる。
「玉は金とは違う。金は合理的な価格メカニズムがあるが、玉には全くない。資産価値があるから玉を買う訳ではない」という。であれば、何のために買うのだろうか。「好きだから、自慢したいから」は正しい説明だろうか。
(2) 待ちぼうけ
暫くホテルで休んでいたが、ネットが出来ない。聞けば、少し離れたネットカフェなら出来ると言われ、行って見ることに。ショッピングセンターの裏にあったその店は、ネットカフェというより、ゲームセンター。かなり広いスペースにPCが何百台も並び、薄暗い中、昼間から大勢の人たちがヘッドホンをして、何かを見たり、ゲームをしていた。あまり健全な場所と思えなかったが。
どうやってメールチェックが出来るか聞くと、本来は身分証が無いと登録できないらしい。ただ外国人には臨時証を出すとのことで、カードを貰う。何と1時間僅か3元、これなら暇な若者が昼か屯する訳だ。でも自分のPCは全く繋がらない。この辺は管理がきちんとしている。
メールをチェックするとやることもないので(中国ではツイッターもFacebookも見られない)、外へ出る。隣のショッピングセンターへ入ってみると、2階にお茶屋があった。どんなお茶を売っているのか覗いてみると、鉄観音やプーアール茶など、高いお茶ばかりだった。オーナーの女性は安徽省から出て来て、この店を開いた。お客は漢族もいるし、ウイグル族もいるという。
最近はホータンにも金持ちはいる。彼らは普通のお茶には興味がないので、内地で流行りのいいお茶を持ってきて売っている。地元の普通の人はバラ茶かな。結構大きな店構えだが、どの程度売れるのだろうか。
そして腹が減ったので、周囲を見渡すが、午後4時では開いている店も少ない。ようやく1軒、何だか団子スープと読める店が開いていた。団子やネギ、などが入った美味しいスープに蒸しパンを入れて一緒に食べる。これはかなりイケル。15元。
そしてホテルで待つが、いつまで経っても一行は戻らない。新疆時間午後9時、遂に電話してみた。すると・・、村で大宴会が開かれ、皆へべれけに酔っており、私のことなど、完全に頭から飛んでしまっていた。イヤー参った。
仕方なくホテルを出て夕飯を探すが、既に時間も遅く、屋台も店仕舞いしていた。1軒、まだケバブを焼いている店があったので、ナンと一緒に頼み、口に放り込む。肉汁が何ともいえない。腹が減っていたので、数本食べる。これで満足、ホテルへ帰って寝る。深夜隊長のN教授が恐縮してやってきた。こちらは既に夢うつつであった。
(5) ホータンへ
何とか飛行機に滑り込む。機内は意外なほど、空いていた。実は2か月前に最初に予約しようとした時は全てが割引運賃なし。ところが3週間前に最終的に予約する時は40%オフになっていた。何故だろうか、どうやら漢族はテロを警戒し、南新疆への旅行を取りやめ、旅行社が大量にキャンセルを出したらしい。やはり危ないのか。そういえば、北京、ウルムチ間の航空運賃も同じようにディスカントになっていた。
ホータンまでは約2時間、同じ新疆内とは思えないほど、遠かった。そういえば前回のカシュガルも1時半半以上掛かった。本当に広い所だ。乗客にはウイグル系が目立っていた。外国人もあまり見かけない。殆ど揺れることもなく、ホータンの空港に定刻に到着した。小さな空港だった。タラップを降りると、周囲には何もなかった。80年代の中国の空港を思い出す。何となく懐かしい雰囲気があった。荷物を取るターンテーブルも小さい。うーん、本当に中国の果ての果てまで来てしまった感じがある。
3.ホータン (1) 空港から
空港に到着したが、今日は自力でホテルへ入るように言われていた。空港前のタクシーを避け、奥に停まっているタクシーに声を掛ける。「どれに乗っても20元だよ」と言われる。車内で待つが、他の客が来ないと発車しない相乗りのため、一向に出る気配がない。すると他の運ちゃんがやってきて、お客を交換しろ、という。家族4人組が来たので、私がトレードに出され、直ぐ出発する車に乗り換えた。既に3人が乗っていた。何キロも走らない内に街に入り、役所関係者は役所の前で、女性出張者は予約したホテルで降りていった。
私が指定されたホテルはこの街では結構立派なホテルだった。横には大きな広場があり、この辺が街の中心だと思わせるものがあった。ただラマダン中だからか、人影はまばらで、時折観光客が歩いているだけ。何とものんびりとした風情が漂っていた。このホテルでも予約が分からいと言われ、J教授に電話する羽目に。J教授一行は本日ホータンから200㎞離れた街に視察に行っているとのことで、ホテルで待つように指示がある。
(4) 渋滞
Oさんと別れてホテルに戻り、チェックアウト。昨日空港に迎えに来てくれた人が空港まで送ってくれることになっていたが、約束の11時になっても来ない。まあ飛行機は13時15分、余裕を持って待つ。11時20分にようやくやって来て乗車。ところが・・・。直ぐに交通渋滞にぶつかる。一時は全く動かずに20分も過ぎていく。こうなると余裕はなくなる。運転手は「この程度の渋滞、ウルムチではよくあることさ」と気にも留めていない。でももし飛行機に乗れなかったら、とても面倒だ。
途中のトンネルまでが激混みだったが、その先は意外とスムーズに行った。出発1時間前には空港に到着、やれやれと思っていると、今度は空港内へ入れない。現在ウルムチはテロへの警戒からか、入り口で荷物検査を実施していた。乗客は私と同様、ぎりぎりで空港に到着している。当然混乱が起きていた。
何とか混乱を掻い潜り、チェックインを済ませてホッとする。ところが、今度は空港内の身分証検査に長い行列が出来ていた。そして出発30分前になり、ようやくそこを通過、しかし更に再度の荷物検査が。もう搭乗時間だ、と慌てる。検査官がこんな時に限って念入りに調べている。私の足をチェックし終わったので、歩き出すと、何と別の検査官に足タックルを受ける。なんだこれは。後で分かったのだが、何と足の裏のチェックが必要だったのだ。手荷物をしっかり押さえられ、何だか犯罪者になった気分。それほどまでに犯罪があるのか、いやそれほどまでにみんな焦っているのだ。
8月14日(火) (2) チャイハネ
翌朝も昨晩に引き続き、Oさんにお付き合い頂き、ウルムチのお茶屋さんへ行く。現在ラマダン中でウイグル系のお茶屋さんは皆、日中営業していない。Oさんは態々調べてくれて、回族系なら開いているということで出掛ける。
今日はいい天気だ。市内中央にある広場の近くに、そのチャイハーネはひっそりと営業していた。そこでは朝ごはんを食べる回族の人々の日常があった。我々が入って行くと、ちょっと場違いだぞ、という視線に晒されるが、既に動じるような神経は持ち合わせていない。
油餅やサラダを取り、ミルクティ、チャイを飲む。このチャイ、私には正直飲み難い。元々牛乳やチーズが苦手であるから、仕方がないが、濃いミルクの味はどうにも飲みきれない。
店を出て、Oさんお勧めの湖南省の黒茶専門店へ行く。新疆では湖南省の黒茶、特にレンガ茶と言われている安いお茶が一般的に飲まれている。今回はその歴史を知りたいと思い、やって来たのだが、残念ながら閉まっていた。更にスーパーへ行き、どんなお茶が売られているのか見てみた。
意外や紅茶が並んでいる。レンガ茶も安価なものから少し高級なイメージの物までバリエーションが出て来ていた。それに種類が思いのほか多い。これも経済発展のお蔭だろうか。
途中歩いているとラビア・カーディル女史が所有していたという建物があった。中国政府は彼女を敵と考えて攻撃しているが、建物はそのまま残っているようだ。どういう意図があるのだろうか、良く分からない。ただ新疆でも彼女のことを知らない人が増えているらしい。
1月3日(木) ソンクラーからバンコックへ戻るには
ソンクラーのビーチホテル最終日。今日はさらに激しい雨に見舞われる。外出すらままならず、ベランダから荒れた海を眺めるのみ。仕方なく、部屋の大きな湯船に浸かり、足を思いっきり伸ばして休む。
午後2時になっても雨は断続的に降っている。雨が止んだ瞬間を捉え、ホテルをチェックアウトして、ハジャイ空港へ向かう。ホテルからタクシーをチャーターすると700バーツと言われたが、時間はあるので自力で行って見る。ホテル前にはトゥクトゥクすらいない。どうするんだ?少し歩いて行くと学校があり、その前にはトゥクトゥクが数台いたが、私が「ハジャイ」と告げると、皆困った顔で「お前行けよ」という雰囲気で誰も乗って来ない。するとトゥクトゥクに乗っていた高校生が「バイタク」と叫び、皆が「そうだ」と安堵して、バイタクが呼ばれる。ハジャイ行きのロットー乗り場まで連れて行くらしい。高校生、ナイス。
バイタクに乗るとまた雨が降り出した。かなり強くなり、濡れる。困ったと思っているともう到着。20バーツ払う。そしてロットーに乗り込む。直ぐ出発し、順調。行きと同様、お客を拾いながらゆっくり進む。もう慣れた、と思ったが、ハジャイまでの道は見慣れない道。本当にハジャイ行きか心配したが、何とか市内に入る。30バーツ。
全員が降りたが、私はどうするんだ?運転手は何も言わない。とうとうバスターミナルまで戻る。ここでタクシーを拾えという。だが時間は3時半、私にフライトは7時なので、先ずは食事。麺を食べる。相変わらず美味い。40バーツ。この店、旅行社を兼ねているらしい。おじさんが「どこ行くんだ」と聞くので「空港」と答えると興味なさそうな顔。
別のおじさんが、400バーツだ、というので驚く。そんなに高いのか、何故。確かにハジャイ空港から市内のタクシーは1台300バーツだった。どうやらこれが基本、そしてタクシー以外にバスなどは全くないという。飛行機に乗る人間はお金持ち、ということだろうか。「高い」と訴えると、トゥクトゥクは300バーツという。それも本当にボロボロの車だ。きっと空港へ行く旅行者が集まる場所は他にあり、そこでタクシーをシェアするのだろうが、今は探すすべもない。結局このボロトゥクで空港へ。それでもソンクラーのホテルからタクシーに乗ると700バーツだから、ちょうど半額で来た。
空港にはすぐに着いてしまった。あまりに早いので、もう1つ前のフライトに乗ろうと思ったが、何と「キャンセル」だった。仕方なく、WIFIでも、と思うと、この空港はドムアンと違い、ノックエアーのWIFIはないとのこと。残念。コーヒーショップでも「今日は繋がらない」と言われたが、レストランでは何故か使えた。ここのトーストは何故かうまい。コーヒーもコンデンスミルク入りで甘いが良い。そして中国茶?も登場。
ノックエアーはほぼ定刻に出て定刻に着いた。CAの笑顔は相変わらずよい。ドムアンでは前回タクシー待ちの列、そしてタクシー運転手の騙し、に会い、嫌だったが、今回は初めから空港の外へ出た。バスに乗ろうかと思ったが、バスの番号を忘れてしまい、そこにやって来たタクシーに乗る。高速を走ることもなく30分、175バーツで宿泊先に到着。これならいいか。
今回は何もない所へ行き、何もせずに、そして何かを考えた。年の初めとしては良い旅だったかもしれない。さあ、これから鬼門のインドだ。やはり緊張する。