8月21日(火) 7.ウルムチ2 (1)ウルムチへ帰る道
一連の南新疆調査を終え、ウルムチへ。毎日のように車に乗って移動していると、もう何日目か分からなくなる。1週間以上が過ぎていた。高速道路で一路ウルムチへ帰る。
途中ガソリンスタンドに寄る。これまで何度となく、ガソリンを入れ、トイレ休憩を取るために、ガソリンスタンドに寄ったが、最近はどこにでもコンビニのような店がある。入って行くとちょうど従業員が集まり、朝礼の真っ最中。これって、日本式か。「顧客第一」など、まさに日本的な指示を責任者が出していた。飲み物も沢山買うと安くなるなど、色々と工夫がなされており、面白かった。
ランチも高速沿いのレストラン。ラグメンを注文したが、ここの麺も美味しく、ついお替り、というか替え玉をお願いしてしまった。本当に幸せな気分だった。このラグメンさえあれば、私は新疆で暮らしていける。
7時間ほど掛けて、ウルムチに到着。先日のホテルにチェックイン。疲れていたが、N教授達は最後のウルムチの夜ということで、J教授一家が参加して、ホテルで晩餐が行われた。特にJ教授は日本でA教授の教え子、ということがあり、実に中国的な師弟関係を築いていた。「先生」と言えば、日本では今や濃い関係は少ないが、中国では先生は絶対の存在であり、生徒は一生先生を尊敬し、尽くしている。
8月20日(月) (2)コルラ郊外へ
翌朝、頭を抱えて起きて来る人々。昨晩の大変さが分かる。今日は月曜日だが、どうやらラマダン明けの休日らしい。ということで、企業訪問は出来ずに。郊外へ観光に向かう。市内を抜けると、そこには郊外の新しい街がある。どんどん立派になっている。このようなことが、農村の都市化と関連しているように思う。
90㎞近く離れたロプノールのテーマパークへ行く。ここはタクラマカン砂漠の東の端。古代はロプノール人がタリム河河畔に定住し、独特の生活文化を営んでいた。漢の時代には王国があり、シルクロードの楼蘭への道の通過点。確かに今でもタリム河が流れ、タクラマカン砂漠が存在している。
園内にはロプノール人の文化が分かるような住居や結婚式の風景などが展示されている。そしてタリム河を渡り、タクラマカン砂漠ヘと進む。そこには駱駝がいて、観光客を乗せ、俄かキャラバン隊が結成される。
午後は天然の地下渓谷を訪ねる。周囲に全く何もない場所に、突然深い渓谷が現れる。それは一体何なんだろうか、どうして出来たとか、何故あるのか、といった疑問は愚問であり、まさにあるからあるのだとしか言いようがない。
とても不思議な渓谷だ。長さ49㎞、深さは10-30m。2000年以上前に出来たらしい。これが地下になっていて水が流れていたのだろうか。現在全く水はなく、観光客は渓谷内を歩き回る。結構暑い。人は殆どいない。
その日の夜、また宴会をしようという地元幹部を押しとどめて、簡単な夕食をお願いした。が、焼肉屋となり、またたらふく食べる。これでよいのか、これでよいのだ。
1月17日(木) 第4回バンコック茶会開催
第4回バンコック茶会が開催された。今回はこれまでで最多の29名のご参加があり、驚いた。(男性は3人)。会場は2回目以降アソークのパーソネルコンサルタントさん(http://personnelconsultant.co.th/ )がセミナールームを提供してくれ、有難い。
先ずは私が「中国茶の基礎知識」を説明し、その後トルコ、湖南省、スリランカ、タイの「茶旅」を紹介した。今回は特に茶縁が如何に発生、茶旅が完成したかを重点的に説明してみた。お茶はウエルカムティで広東省潮州の鳳凰単叢を出した。バンコックの華人の内半数以上は潮州出身ということで紹介してみたが、そのフルーティな香りが良かったようだ。
トルコの緑茶(煎茶)の謎、湖南省の希少価値の安化紅茶、スリランカの歴史的な紅茶を話しながら飲んでみた。どうだっただろうか。そしてタイ、メーサローンの国民党残党の村の話。何故あそこで茶業が始まったのか、品質が向上したのか。タイ在住者には知って欲しい内容。
そして今回の目玉は2回目に続き、トライアスロン監督兼選手のKさんのお菓子。みたらし団子、どら焼きなどの和菓子のみならず、今回はロールケーキも登場、充実した内容だった。私の話などそっちのけでお菓子を分け合う参加者にその人気ぶりが伺えた。
参加者の中にはバンコックの日本語FMでDJをしている方々もおり、既にこの茶会の話、私の話も何回か話題になったらしい。少しずつバンコックに茶会が浸透し始めていることは喜ばしいことだ。
次回は3月11日(月)。「じっくりお茶を飲んでみよう」というテーマが良いなと思っている。新たなお菓子も登場するかもしれない。また今年中にはタイの茶畑ツアーが実現すると良いな、と思うのだが、どうだろうか。
※今回は金ちゃん撮影の写真を使わせて頂きました
6.コルラ (1)危険なモンゴル流宴会
そしてコルラに到着。コルラ市内はこれまでの新疆の都市と異なり、ウルムチに近い、発達した街だった。KFCなどの外食、ブランドショップなども見え、景気の良さを伺わせた。今日の宿泊先は巴音郭楞(バインゴロン)賓館。何か馴染みのない名称だなと思っていたら、何とここはモンゴル自治州。新疆にもモンゴル族が多数住んでいるのだ。だが、何故モンゴル族多いのだろうか。どうやら新中国後に大量の移住が行われたらしい。
今回のJ教授、S教授のお知り合いは、モンゴル族。お互いが北京に居た時に知り合ったというS教授とモンゴル族幹部。不思議な出会いから、今日があった。面白い。夕食はモンゴル式歓迎宴会。テーブルには豪華な食事が並び、美味しく頂く。そして・・。
モンゴル式の歓迎宴。5人のモンゴル服を着た男女が登場し、歓迎の歌を歌ってくれる。そして踊る、そして酒が入る。白酒だ。一番恐ろしいのは女性三人が金の杯、銀の杯、玉の杯の3つになみなみと白酒を注ぎ、お客に1つずつ渡す。相当の量があるため、お客が途中で杯を返そうとすると、女性はさっと手を開き、受け取ろうとしない。絶対に受けた杯は飲まなければならない。
そしてその儀式は、1人ずつに行われ、全員がへべれけに酔う。A教授は横のソファーに倒れている。まさに飲めや歌えや大宴会。最終的には数人をホテルの部屋にかつぎ込むことになる。実に久しぶりの事態に呆然。
1月15日 優雅なハイティから駐車場の焼鳥屋へ
昨晩インドのデリーから帰国。インドが非常に寒かったこともあるが、やはり緊張していたのだろう。バンコックに戻ると半袖短パンで実に快適に過ごすことが出来、思わず体が弛緩した。何と気持ちが良いのだろうか。蚊に刺されることさえ、嬉しくなってしまう。
午後グランドハイヤットでハイティをした。ハイティ、アフタヌーンティなんて、何年振りだろうか。バンコックでは初めての経験である。ホテルへ向かう角にエラワン祠があった。いつも誰がお祈りしているのだが、今日は特に多い。踊りを踊る女性たちもいる。既に観光地化しているのか、はたまた何かの儀式なのか。いずれにしてもタイが仏教文化の上にヒンズー文化を色濃く残していることは明らかだ。
ホテルのロビーラウンジへ。特に混んでいる訳でもない。ピアノの演奏が好ましい。ハイティセットを2つ頼むと「1つをシェアすれば十分です」と言われる。実に親切な対応。一人分のお茶を追加して、僅か660バーツ。思っていたより随分と安い。
スタンドには1段目チョコ、2段目クッキー、そして3段目にサンドイッチとスコーン。それぞれ美味しく頂いた。久しぶりにスコーンを食べて感激。お茶はティバックなので、うーん。やはりバンコックにはお茶文化はないのだろうか。次回はオリエンタルかシャングリラへでも行って確認してみよう。
その後、大学の同級生Oさんと待ち合わせて、シーロム、パッポンにある焼鳥屋へ行った。何とのこの店、ゴーゴーバーを抜けたあるビルの駐車場に入り口があるユニークさ。中は純粋日本の焼鳥屋。日本のおじさん達で常に満員らしい。既に30年営業しているとか。ここで焼き鳥を食べ、焼酎を飲んでいるとまるで日本と変わらない。最近はタイ人のお客さんも来るというが、フラッと来られるようなロケーションではないので、日本食マニアのような人がいるのだろうか。
ともあれ、高級ホテルのハイティから駐車場に入り口のある老舗焼鳥屋まで、バンコックは実に奥が深い。
(3) ルンタイの街
今日はクチャを離れ、コルラに向かう。高速道路の一本道だと思っていたが、途中で街へ入る。あれ、と思っていると、そこはルンタイ。普通話ではタイヤという意味か。どんな街なんだ。街中へ入ると、漢族中心の街だった。
何と街の真ん中に中国の国有中央企業の巨大なビルが建っていた。説明を聞くと、「この街は実は西気東輸(中国西部の天然ガスを中国東部沿岸地域に輸送する)の西部の出発地点。普通の人はコルラが一大拠点と言っているが、本当はルンタイから」という。工業団地を車で回ってみたが、確かにエネルギー関係の企業が点在している。現在かなりの建設が行われており、将来的には更に大きな施設が出来ていくと思われる。
ここでもJ教授のお知り合いを訪ねた。ウイグル族、地元で働いている。彼の自宅に招かれ、ランチをご馳走になる。我々には同じような肉に見えたが、羊より柔らかく、美味しい。聞けば、「子ヤギの肉」とのこと。この地方ではヤギは子ヤギしか食べないそうで、子ヤギは貴重、贅沢なご馳走だった。有難い。
日本経済研究所月報 コラム 「アジアほっつき歩る記」 第8回「南新疆の漢族化」
http://www.yyisland.com/yy/terakoyachina/item/5260
この家は普通の団地の一室。地方政府の役人に割り当てられたもののようだが、十分に広く、周囲には緑も多く、快適な環境であった。ただ漢族の増加がどんどん進んでおり、ウイグル族などにとっては、住環境とは裏腹に住み難いものになっているかもしれない。
ご縁を頂いている皆様へ
皆様、こんにちは。
1月20日より活動拠点をバンコックから香港へ移します。
旧正月に一時帰国を予定しており、この機会を利用して
「寺子屋ティーサロン」アジアほっつき歩る記報告会を開催したいと思います。
今回はインド、タイ他のお茶事情、 ビジネス事情などを中心にご報告します。
また現地で入手したお茶も飲んでみたいと思っています。
お忙しいと思いますが、この機会に皆さん、是非ご参加ください。
・日時 2月17日(日)午後2-4時半
・場所 恵比寿(千歳烏山から変更しました)
・発表者 須賀 努(アジアンウオッチャー)
・演題 「アジア各国最新事情」
・参加人数 10名程度(参加受け付けは先着順)
※5名以上参加で開催します
・参加費用 2,000円
参加可能な方は早めにご連絡ください。お待ちしております。
8月19日(日) (2) バザールの朝食
翌朝J教授一行はラマダン明けのお祈りの為早くにモスクに出掛けるとのことで、我々はゆっくり起きた。そろそろ旅の疲れもピークに差し掛かり、ちょうど良い休息だった。後で聞くとJ教授達は結局お祈りに行かなかったらしい。それがあまりの人出のせいなのか、または知らない場所のモスクへ行くのではなく自室で祈ったのか、私には分からない。
朝食を取るため、市場へ向かう。昨日はあれだけ混雑していた市場が今朝は閑散としており、その雰囲気がまたよい。朝から果物を売る人はいたが、後はひっそり。市場の食堂だけが辛うじて賑わっていた。
ホテルにもビュッフェスタイルの朝食は付いていたが、やはりJ教授のお父さんもおり、朝食はウイグル式にしたのだろう。私には願ってもないこと。香ばしい焼き立てのナンを頬張り、お茶をすする。少しスパイスが効いたスープ麺も食する。
この食堂、結構広い。ウイグルの人々が幸せそうに朝ごはんを食べている。椅子に座っている人、台座に座りこんでいる人、大人も子供も、特に浮き立つわけではなく、静かに食事をする。この光景を私は幸せと見、彼らは当然日常とする。
5.クチャ (1) ラマダン明け
クチャに到着。街の中心から少し離れた立派なホテルに泊まる。部屋は綺麗でよい。午後クチャの街に出る。街の中心、バザール付近は車が立ち往生するほどの人々の山。ラマダン明けの熱気を感じる。
そこを通り過ぎ、クチャの王府を見学しようとしたが、残念ながら既に閉館。門の扉は、なかなかいい感じの文様が付けられており、是非は行ってみたかったが、そのご縁は無かった。王府の脇では、既に炭が焼かれ、今にもケバブが焼かれようとしている。腹が減る。王府の前の通りは狭い昔ながらの通りのようだが、各家の扉の文様は独特で興味を引かれた。
クチャのお寺にやって来た。こちらは400年以上の歴史がある。ところがここも既に参観時間を過ぎていた。どうも今日は不都合が多い。ラマダン明けで時間の概念が違うのかもしれない。ほんの少し中へ入れてもらって見たが、正直よく分からない。
その日の夜は、ソーメンのような細いめんを食べる。これも美味しい。これにケバブがあれば、もう十分。熟睡する。
(4) キジル石窟
高原の何もない味気ない道を行く。拝城県と言う街を通過する。既にかなりの距離を走っているはずだが。ボーっと外を眺めていると、下り坂の向こうに川が見えた。と思っていると何やら門がある。だが追い返される。どこへ来たんだ。バスは来た道をわずかに戻り、また別の門へ。こちらがキジル千仏洞の入り口だった。
J教授が入場券を買い、中へ入る。ところが千仏洞を見学するのはN教授、A教授と私の3人の日本人のみ。最近整備された一つの窟を見学するのに一人800元も取ると言っていたので、そのせいかと思いきや、どうも違うらしい。我々に渡されたチケットは教員割引で35元。
ちょっと躊躇うも、既に目の前の山壁に千仏洞が見えている。これは上るしかない。また目の前には北魏に捉えられた名僧、クマーラージュの像もある。これは行かねばなるまい。恐らくJ教授ほかは皆ウイグル族。ここは仏教遺跡で宗教が異なること、また更に慮れば、この遺跡を破壊したのはイスラム教徒であり、その姿を見るには躊躇いがあるかと思う。
キジル千仏洞、30年前のNHKシルクロードでは「敦煌莫高窟についで、シルクロードに咲いた仏教美術の名花」と表現されている。キジルには236窟あるが、現在その殆どが空の状態だとか。3世紀に始まり、11世紀ごろまで造営された窟は20世紀初頭、ドイツのルコックとヘディンにより、ほぼ重要部分が持ち去られた。窟内の表示にも「この部分はルコックに持ち去られた」と書かれている。大谷探検隊もここへ来たはずだが、泥棒扱いはない。
上に登る階段は急であり、息が上がる。何故か先導には日本語が出来る女性がいる。彼女について最初の窟に入る。かなりコンパクトな部屋だ。正面に安置されていた仏像は破壊されている。壁の壁画も殆どが変色、または剥ぎ取られており、僅かに足の部分が見えたりしている。奥に進むと裏に回る道がある。正面の裏には涅槃物が安置されていたらしい。これも今では想像するしかない。ここに作られた窟には2種類あるという。仏を安置した祈りの場所。ここは僧が閉じこもり、一心に修行する所だっただろう。もう一つは僧が宿泊する場所。こちらは煮炊きする簡単な竈まであったが、煙突は作れず、煙は窓から出していたとか。更にいえば、階段などない時代、上るだけでも大変だったのに、どうやって水など運んだのだろうか。興味深い謎である。ただ外は暑いが、ここに居ると涼しく感じられる。いい風も入ってくる。意外と快適だったかと思う。
最大の見物は第8窟だという。中に入るとガイドが天井を見ろという。見上げるとそこに伎楽天画がきれいに残っていた。ふくよかな女性が五弦琵琶を奏でている図だ。五弦琵琶は中国にはないが、日本の正倉院にはあるという。これが何を意味するのか、古代のロマンを一気に掻き立てられる。
外に出ると、実に見事な風景が目の前に広がる。河があり、山がある。しかしこの風景をカメラに収めることは出来ない。千仏洞はカメラ持ち込み禁止。下の入り口で荷物は全て預けさせられる。これはルコップなどに持ち去られたトラウマだろうか。ルコップが持ち去った品々は今ベルリンに保管され、研究が進んでいるという。世紀の発見か、ただの泥棒か。
尚我々の前後にはほぼ老人の日本人の団体観光客、後ろからは大勢の中国人観光客がどっと押し寄せてきた。ゆっくり眺める暇はない。特に中国人ガイドの解説は窟内に響き渡り、我々の耳を塞いでしまった。それでも土産物屋のおじさんによれば、ここ10年はそれ以前より客が少ない。特にウルムチ暴動以降は減っている。今年も思ったほどは来ていない、と言い、「半額にするから何か買ってよ」と迫ってきた。